Lost

 喧嘩を、した。

 きっかけはとても些細なことだったはずだ。だのに途中からお互いに引き下がれなくなって、子供じみた罵詈雑言を早口に捲し立てていた。そしてカッと頭に血が上ったまま、反射的に手を上げていた。
 ぱぁん、ととてもいい音が響いて。
 その音で我に返った。
 振り下ろした手を胸元に引き寄せて、軽く肩で息をしながら視線を持ち上げた瞬間、目に飛び込んできたのは頬を叩かれた時のまま横を向き、自分を見ようとせず突っ立っている彼。
 僅かに赤くなっているように見えるけれど、包帯で覆われた肌の色なんて見えるはずがないから所詮それも、目の錯覚でしかない。
 叩かれたのは彼で、叩いたのは自分。なのに、自分の頬が痛んだ。
 違う。痛いのはもっと別の場所。
 彼はまだ自分を見ない。それがまるで、自分の存在を拒絶しているように思えて途端、胸が苦しくなった。丹朱の瞳は床を睨むようで、彼は微動だにせず動かない。
 さっきまであんなにも大声を張り上げあっていたはずなのに、息をするのも忘れてしまいそうになるくらい今は静かだ。それこそ居たたまれなくなるほどに。
 指先が痺れたように痙攣している。肘の辺りをそっと反対側の腕で押さえ込んで震えを押し殺そうとするが、何かを言いかけた唇は浅く息を吐き出しただけで結局音を発することはなかった。
 最初は、本当に些細な口論だったはずだ。
 普段なら適当にあしらって、彼が先に折れて結局うやむやのままに終わるはずなのに。何故今日に限って、こんな。
 重苦しい空気が場を支配している。何かを言わなければならない、何かを告げて欲しい。
 罵倒でも良い、叩いたことに対しての非難の声でも構わない。この沈黙だけが耐えられない。
 けれど彼は何も言わない。動こうとも、自分を見ようともしない。
 だから逃げ出した。
 その間の時間は僅かだったけれど、自分にとっては永遠のように長い時間に思えた。
 外した視線は絡み合う事を知らず、背を向けて駆け出した自分に対する制止の声もなかった。
 惨めな気分だった。
 確かに、最初に彼を侮蔑するような言葉を発したのは自分だった。でもそれは、普段と何も変わらない言葉で、感情で、本気で言ったつもりなど無かった。
 言った瞬間に傷ついたような顔をした彼に、しまったと心の中で感じつつもそれを正直に言葉に乗せる事なんて自分の性格では出来るはずがない。つい、彼を更にあおり立てるような事を口に並べてしまって、それが尚更彼の心を煽ってしまった。
 傷つけた。
 本当なら自分の方が叩かれていてもおかしくない状況だった。むしろ、そうあるべきだったのに。
 矢張り先に手を上げてしまったのは自分の方。
 どうしてこうなってしまったのだろう、今日に限って。
 いつも上手くやっていたではないか、自分たちは。悪ふざけをする彼を自分が軽くあしらって、偶に自分の方から彼をからかうような事も有った。そしていつも最後に彼は笑って、それで終わりだったではないか。
 なのに……。
 無我夢中で城を飛び出し、闇雲にそれこそ適当に目の前に広がる道を走る。
 悔しくて、情けなくて、莫迦みたいで。
 息が苦しくても足を緩めず、いくつもの角を曲がり何人もの人にぶつかりそうになって、それでも自分は止まらなかった。点滅している青信号を駆け抜け、細い路地に迷い込み乱雑に積み上げられているゴミを蹴り飛ばす。
 途中で足がもつれて、その場に倒れ込んだ。
 スライディングの要領で固く冷たいコンクリートの上を滑る。くすんだ水色のポリバケツが巻き添えになって派手な音を立てて転がった。蓋が外れ、中身がはみ出す。
 むっとした悪臭が周囲を覆い、倒れたときの痛みと臭いに顔を顰めた彼はヨロヨロと両手をコンクリートに押しつけて身を起こした。ちりっとした熱さが掌に広がって、顔の前で開いてみるとガラス片が刺さったらしい。赤い血が珠になって滲み出ている。
 不意に、泣きたくなった。
 立ち上がり、衣服の埃を払う。掌の血がぽつぽつと染みを残して濃く、薄くあちこちに散る。緩く首を振って、転んだときに擦った頬に触れた。切れてはいないようだが、少しだけ熱を持っている。指を添えると、頬骨の上を薄く痛みが走っていった。
「私、は……」
 一体何をやっているのだろう。
 全力疾走してきた所為で、今も心臓は破裂しそうな勢いでポンプを全開にしている。頭は転んだ御陰で少し冷静さを取り戻していたが、生ゴミの悪臭のために気分は最低だった。
 兎に角此処を離れよう。そこかしこをぶつけた所為で身体の各所が痛んだが構わず、細い路地裏を片側の建物の壁に手を置く形でゆっくりと進んでいく。だが、表通りとの接点まで歩を進めたところで唐突に、動きたくなくなった。
 眩しすぎる。
 今まで薄暗い路地裏に居たからではない。表通りを行き交う人たちの表情が明るくて、今の自分が其処に混じる勇気が持てなかったからだ。
 自分にはその資格がないように思えて、動けなくなる。
 白と黒のライン。光と影の境界線の一歩手前で、進むことも引き返すことも出来なくて。立っているのも辛くてその場に座り込んだ。壁に凭れ掛かり、抱きしめた膝に顔を埋める。
 視界が闇に染まる。
 ガラにもなく落ち込んでいるらしい、こんな自分は自分ではないと思えるのにそれを跳ね返すだけの気力が今日は沸いてこない。いっそこのまま此処で眠りについてしまおうか、そんな事さえ頭に浮かんで顔を伏せたまま皮肉げに微笑んだ。
 音が遠くなる。路地に蹲っている自分を誰も気にしやしない。無機質に通り過ぎていく人波は自分を拒絶しているようにも見える、まるであの瞬間の彼のように。
 唇を噛む。頬がまだ痛い。
「ユーリ!」
 だから。
 ばんっ! と路地の両脇に建つビルの壁に両手を広げて置いて、息せき切らせた彼が現れた時は本当に驚いて声が出なかった。
「……スマイル……?」
 どうして、ここに。そう問おうとしたのに唇が麻痺したように動いてくれない。呆然と膝の間から持ち上げた顔で見上げた先で、隻眼の丹朱がホッとしたように柔らかくなった。
「良かった、見付かって。あちこち探しちゃった」
 嬉しそうに、眩しいくらいの笑顔を向けられる。
 何故笑っているのだろう、自分は彼にとても酷いことを言って酷いことをした。謝りもせずにその場から逃げ出して、勝手に此処にいるのに。
 捜してもらえる理由なんて何処にもないはずなのに。
「どうしたの? どこか痛いとか? あ、顔!」
 赤くなっている頬に気付いてスマイルが声を荒立てる。壁から手を離して膝を軽く曲げ、ユーリに顔を近づけると傷の具合を確かめるようにじっと見つめてきた。それが気恥ずかしくて顔を背けると、首を曲げて更に彼は視線で追いかけてくる。
「ユーリ?」
「お前は、何故」
 自分が此処にいると、解ったのか。
 言葉が続かなくて視線だけで問いかけると、スマイルは「な~んだ」と肩を軽く竦めて、
「そりゃ、愛でしょ?」
 普段の元気があれば、グーで殴りつけていただろう台詞をさらっと口に出した彼は、もし今現在のユーリの気力を計算に入れていたのだとしたら、それは充分策略家だろう。
 喧嘩をしていたこと、そして頬を叩かれたことも全く気にしていない様子でスマイルはいつもと変わらない笑顔を見せてくれる。それが嬉しくて、ユーリはまだ間近にあった彼のおでこを指で弾いた。
「寝言は寝てから言え」
「ちぇっ」
 酷いなぁ、と打たれた額を押さえて離れて行ったスマイルに薄く笑み、ユーリは銀の髪を掻き上げる。見上げた先で、スマイルと視線が合った。
「お前、莫迦だろう」
「うん」
 貶すつもりで言ったのではないが、ついつい棘のある言葉を口に出してしまう。しかし言われた方も充分それが解っているようで、にこにこと表情を変えないままあっさりと頷く。
「怒っていないのか」
「どうして怒らなくちゃいけないのなかぁ」
 確かに一方的に叩かれはしたけれど、そうさせるような事を言ったのは自分だから。お互い大人げなかったねぇ、と笑って彼は首を振る。
 結局、今回もスマイルが折れることで問題は解決の形に向かおうとしていた。それが自分の甘えであることは解っているつもりなのだが、如何せん素直でないこの性格では他にどうしようもないから。
 そして、スマイルもそれを許してくれているから。
「立てる?」
 立てなかったら抱っこしてあげる、とまで言われては自力で立ち上がらざるを得ない。壁に片手をついて膝に力を込め、一気に立ち上がると見守っていたスマイルが残念そうに舌打ちするのが聞こえた。
「はい」
 けれどまだぶつけた膝が辛く、立つのがやっとと言った感じを察したのだろう。何も言わずスマイルが左手を差し出してきて、一瞬の逡巡の末ユーリはその手を取った。
 握りしめられた手が、暖かさと優しさを伝えてくれているような気がした。
 軽く引かれる。その弾みで一歩足が前に出て、あれだけ自分ひとりでは出ることが叶わなかった薄闇から光の中に吸い込まれた。
「おっ、と」
 抗う事なく引っ張られたユーリを、全身で倒れる手前で受け止めたスマイルが少し驚いた顔をする。けれど調子に乗ったのか、そのままぎゅっとユーリを胸に抱き込めてきた。
「ん~…………」
 髪に鼻先を埋めて来るが、微妙に間が空いて、
「ちょっと……生ゴミ臭いかもねぇ……」
 めしょ。
 ぽつりと零された素直な感想を聞いた瞬間、ユーリの拳は自然と動いてスマイルの顎をクリーンヒットしていた。
「帰る!」
 しがみついているスマイルの腕を解くと、顎を押さえて呻いている彼を置き去りにユーリはさっさと歩き出した。
 一瞬でも彼を良い奴だと思った自分が莫迦らしくて、腹が立つ。
 だが途中、十メートルほど進んで立ち止まり上半身だけで振り返ってまだ痛がっている彼を確認してから、結局は、
「帰るぞ!」
 その声にパッと顔を上げたスマイルが、あれは芝居だったのかと思わせる変わり様でユーリのところまで走ってきてふたり並んで、歩き出す。
「あとで消毒しとかないとねぇ……」
 彼はまだユーリの頬の傷を心配しているようでそんな事を言ってくる。けれどあんなに痛んだはずの傷はどこももう痛くなくて、ユーリは過保護すぎる彼に小さく笑った。