非恋愛的恋愛症候群

 夕方。
 放課後。
 本日の部活動は、学校内の教員を総動員しての職員会議が放課後に予定されているからなし、とのおふれが出ていた。
 季節は春を過ぎ、初夏。新入生もそろそろその殻を脱ぎ捨てることを要求され始め、高校生活にも慣れを見せ始めた時期。瑞々しい青葉が植樹を彩って陽射しが眩しいと感じ出す時期でもある。
 長い受験勉強で鈍っていた身体も、日頃の厳しい練習で充分にほぐれて来た頃合い。丁度いいタイミングだからと、自主練習をしようとする一年生を相手に十二支高校野球部主将は朗らかな笑顔で、今日は完全休業するように、と告げた。
 一斉に不平不満を顕す声が上がった(一部喜ぶ人間も居たが)。嬉しさの余り飛び跳ねる兎丸は除外して、練習熱心の代名詞を背負っている子津が牛尾主将に練習させてくれるように頼み込んだけれど、練習場所であるグラウンドへ入るための鍵は主将が握っているのだ。
 その主将が鍵を手放さない――だめだよ、の言葉を撤回しない限り一年生は限りなく無力である。結局、一度はユニフォームに着替えようとしていた面々揃って、脱いだばかりの制服に再び袖を通す羽目に陥った。
 先輩方はキャプテンのお達しを先に聞いていたらしく、その場に居たのは一年生と後ろキャプテンだけであり、彼はにこにことした笑顔を崩さずに後輩が全員部室を出るのを見送り、部室の鍵までしっかりと閉めて回収して去っていった。
 寄り道はしないように、道草は食べないように。小学生相手にしているんですか、と言いたくなる注意事項を念入りに各人に――特に猿野には念入りに――告げ、教室に鞄を置いてあるから、と踵を返す。けれど途中で一度立ち止まって振り返り、なんだったら一緒に帰ろうか、と猿野相手に声をかけて。
「こいつは、しっかりと俺達が見張ってますからご心配なく!」
 つい、ガラにもなく声を荒立てて叫んでしまった。しかも瞬間的に伸びた俺の腕は猿野の、無防備丸出しだった手をしっかりと掴んでいて。
 おやまぁ、と後ろで辰がずり落ちた眼鏡を直すのが気配だけで知れた。
「は?」
 自分の知らないところで争奪戦が発生しようとしていることなど、考えてもいないらしい。腕と一緒で無防備を晒している猿野が頭の上でクエスチョンマークを浮かべ、キャプテンから俺へと視線を向ける。
「なんでテメーに見張られなきゃなんねーんだよ、オレが!」
 人類という霊長類の長たるこのオレ様が、何故に犬っころなんかに面倒みられなきゃなんないんだ。そう耳元でがなり立てる猿野を眺め、牛尾主将は口元を隠しながら楽しそうに笑う。
「じゃあね、チェリオ君。くれぐれも気をつけて帰るんだよ」
「あ、はーい」
 主将相手には素直に返事をしてくれる猿と、そして俺達に背を向けて歩き出した主将を睨み付ける。彼が去り際に発したのは、あれは俺への挑戦状か何かか?
「犬飼君、私たちもそろそろ帰りましょう」
 いつまでも残っていては、教職員の皆様方に迷惑をかけてしまいます。
 律儀な口調で告げる辰に頷き、俺は未だ掴んだままで居た猿野の腕に気付いて慌てて放した。猿野は不満顔で俺をひと睨みし、俺が掴んでいた箇所をもう片手でさする。無意識に力を込めてしまっていたらしい、痛かっただろうかと詫びの言葉を告げたかったのに猿野は俺から早々に視線を逸らすと、誰かを捜して周囲を見回した。
 誰を捜しているのだろう、と俺も一緒になって回りを見る。けれど野球部の部室前には当然野球部絡みの人間しか残っていない。ついでに言うならば、マネージャー達も今日は現れなかった。恐らく練習無し、の連絡が先に行っていたのだろう。それは二、三年生の先輩方と同じだ。
「沢松君でしたら、先程写真部の方と一緒に帰っていきましたよ」
「なにー!?」
 一体何処で目撃したのか、と疑いたくなった辰の台詞に、殊更大声で猿野は叫び握っていた鞄を落とす。どうやら幼なじみのあの野郎を捜していたようで、俺はむっとした思いを抱えながら猿野の落とした鞄を拾い、ぶっきらぼうに突き出す。
「ほらよ」
「……触るな」
 まだ学校が始まってからふた月と少ししか経過していないのに、既にボロボロになりかけている猿野の鞄は軽そうで、重かった。中に何が入っているのか気になったが、どうせ漫画本や食糧辺りだろうと察しを付けてそこで思考は停止する。
 俺から鞄を奪い返した猿野は、大事そうに、そして重そうに鞄を抱え込んでまた視線を巡らせた。牛尾主将とのやりとりをしていた間に、大方の面子は帰ってしまったらしく、すっかり人気が無くなっている。
「ネヅッチューは?」
「彼は兎丸君と司馬君と一緒に帰りましたよ。なんでも、一緒にCDショップを回るとかで」
「えー。オレも一緒に行けば良かった」
 辰の返事に猿野はまた、頭に響く大声で叫ぶ。どうして誘ってくれなかったんだ、と愚痴をこぼす奴に辰は、キャプテンとのお話を中断させるのも悪いから、と子津が誤っていた事を知らせる。
 果たしてそれも、本当かどうか。
 そして最終的に今残っているのは、俺と、猿野と、辰の三人だけ。その事に不満そうで、猿野はふっと俺の顔を見上げ、そして一瞬で逸らし唇を尖らせる。
「じゃあ早く帰ろうぜー」
「あ、私は参考書を買おうと思うので本屋に寄りますが」
「……げ」
 もういいや、と諦め調子で呟いた猿野にトドメを刺すかのように、辰は眼鏡を上げながらにこりと言った。それはむしろ、猿野に、というよりは俺に向かって発せられた言葉のように聞こえたが。
 げ、と言いたいのは俺の方だ。
「一緒に行きますか?」
「遠慮しとくぜ」
 本屋、と雖も漫画本ばかりにが並んでいるところではない。辰が行くのは洋書なんかも扱っている大型の、専門書ばかりが揃えられているお堅い本屋なのだ。当然猿野がそんな場所に行きたがるはずが無く、即答で奴は首を横に何度も振った。
 辰が芝居がかった顔で残念そうに、そうですか、と呟く。ちらりと見上げた俺へ、何の意味を込めてかの含み笑いを向ける。
 こいつがこんな顔をするときは、大抵何か企んでいる時だ。
 そして伊達に中学からバッテリーを組んで来ただけあって、俺の勘は外れてくれなかった。
「では、犬飼君。猿野君の見張り、宜しくお願いしますね」
「げっ!」
 今度こそ心底嫌そうな顔をし、猿野は悲鳴を上げた。……それは俺も一緒だったが。
「辰!」
「犬飼君? 先程主将相手にご自分で仰有っていたではありませんか」
「うっ……」
「ちょっと待て! なーんでオレが、こんな奴と一緒に!」
 怒鳴り返そうとして、けれどやり返されて言葉に詰まり、そこに猿野が割って入ってくる。
「俺だって、テメーなんかとお断りだ!」
 本音ではない言葉がすらすらと口をついて現れ、空気を震わせる。辰がその、こんな時だけ息がぴったりと合う俺達を交互に眺めて溜息をついた。
「そうは言っても……おふたりとも、駅まではどうせ道が一緒でしょう?」
 呆れ調子で告げた辰の台詞に、ふたりしてぴたりと声が止まる。
 そう、そうなのだ。駅までの道は単調な下り坂が続き、途中で寄るほどの大型ショップも少ない。ひょっとすれば駅前で先に帰った面々と鉢合わせする事だってありかねない、本当に小さな町。因みに辰が寄る、と言っているのは電車を少し乗り継いだ先にある少々都会と言える場所にある書店だ。そしてその場所に行くための路線は普段俺達が使っている電車会社とは異なっていて、学校前からバスで行かねばならない。
 辰とは、学校前で今日はサヨウナラ、なのだ。
 仕組まれている気がする。そう思ったが、もうどうしようもなくて俺は重いため息を零して鞄を握りなおした。
「帰るぞ、猿」
「こらっ、勝手に決めんな!」
「じゃあ置いていく。俺は帰る」
「ッテメ! 待ちやがれ犬のくせに!」
 ひとこと声をかけて俺は歩き出した。後ろで猿野は騒ぐが、煽るような事を告げれば猿野は逆切れを起こし、俺を追いかけてくる。だけれど、見送る側に立った辰にもしっかりと手を振り、別れの言葉を投げかけている奴は思いの外律儀であり、几帳面だ。
「やれやれ……」
 やっと行きましたか、と眼鏡を上げながら辰が小さくなっていく俺達をそうやって見送る。
「大変そうだね、君も」
「いえいえ、大した事ではありませんよ。投手を好投球に導いてやるのが、私の仕事ですから。それに、敵は強大ですし」
 気の休まる暇もありません、と。
 そう辰が不敵な態度で笑いかける。同じように不遜な態度を崩さず、一部始終を見守っていたらしい意地の悪い人物は笑いながら、
「その“敵”には、僕も含まれているのかな?」
「さぁ……判断しかねますね、牛尾キャプテン」
 後から話を聞いて、俺はその場に居なくて良かったと、心の底から思った。

 放課後。
 帰り道。
 お互いに無言のまま、学校の正門から駅まで幾つかの角を曲がりながらも、経路としてはひとつしかない道を道なりに進んでいく。
 近所の小学校帰りらしいランドセルを背負った子供達が、俺達の脇を小走りにはしゃぎながら去っていく。そのうちのひとりが、被っていた帽子を前方から吹き付けてきた風に飛ばされ、「あ!」という短い悲鳴を上げた。
 黄色の学帽は俺の斜め左方向へと飛ばされて、俺は鞄を握っていた左手を解いた。ズドン、と辞書も入っている鞄がアスファルトに落ちると同時に、俺は地を蹴った。
 伸ばした腕が風に煽られ、浮き上がる帽子の鍔にあたった。
「あー」
 残念そうな小学生の声が周囲に響く。俺の指先を掠めた帽子は、上方向へと飛んでいこうとしていた軌道を一気に下方向へ修正した。俺は今自分たちがいる場所が、小さな川の土手とも言える場所だという事を思い出し、背中に冷や汗をひとつ流した。
 このままでは、帽子は川へと落ちてしまう――――
 けれど、
「ナイスキャッチ」
 背後で、いつの間にか道と川を隔てる背の低い柵に身を乗り出していた猿野が、俺の掴み損ねた小学生の黄帽子をしっかりと掴んでいて。
 着地と同時に振り返った俺に向かって、にっ、と白い歯を見せて笑った。
「ほらよ」
 もう飛ばすんじゃねーぞ、と走ってきた小学生の男の子に帽子を被せてやって、猿野はその子の頭をひとつ撫でた。
「うん、ありがとうお兄ちゃん!」
 その子にとっては、俺よりも帽子をしっかりと掴まえた猿野の方がヒーローなのだろう。礼も、俺にはなかった。
 子供は待ってくれていた友達を追いかけて急いで走っていく。ぱたぱたと元気の良い足音を響かせる子供を見送って、猿野は勝ち誇った顔を俺に投げつけてきた。どうだ、と言わんばかりに胸を反り返す奴に、俺は悔しさを紛らわせて呆れながら自分で落とした鞄を拾い上げた。底を軽く叩いて埃を払う。
 相手にして貰えなかった猿野がつまらなそうに唇を尖らせ、まだ止まったままの俺を置いて先に歩き出す。
 二級河川という札の出ている川の、短い距離しかない橋を渡る。
 夕暮れ。 
 沈もうとしている太陽が、眩しく俺達を照らす。
 東から西へと流れているその川は目に映る範囲だけではほぼ一直線で、欄干から左を向けば、夕日がはっきりと見えた。
 狭い地表を埋め尽くす住宅や、ビルディングの隙間を這うようにして走る川の上を、オレンジ色をした光が埋め尽くしている。
「あー……」
 橋の中央まで進んだところで、先に猿野が足を止めた。
 俺も数秒遅れで猿野に並ぶ。視線は同じものを見つめ、同じ事を考えていたらしい。
「「綺麗だな」」
 その言葉が、ふたり同時に自然と流れ出て重なった。
 まったく、普段はどうしてここまで、と言いたいくらいに気が合わないのにこういうときだけ、嫌になるくらいに気があってしまうのは何故だろう。
「マネすんな」
「そっちこそ」
 横斜め上を見上げる猿野の台詞に、俺も斜め下を見下ろして言い返す。
 猿真似は貴様の本業だろうに、と鼻で笑いながら言ってやれば、猿野はうきーっ! と歯ぎしりをしながら地団駄を踏んで悔しがる。それこそ猿だろう、と俺は奴から視線を外して夕日を見つめた。
 いつもは練習で帰りが遅くて、日が沈みきってからこの道を通っていたから今まで、二ヶ月近くもこの道を毎日通っていたのに気が付かなかった。この時間帯に帰ることが皆無だったとは言い難いけれど、それでも、この場所から見る景色に気付いたのは今日が最初だった。
 そして、俺がひとりでこの道を歩いていたとしたら、今日であっても気づけたかどうか。
 自信が無い。
 俺は隣を見た。この景色に気がつけたのはコイツの御陰かも知れないと、その張本人を見下ろそうとして。
 猿野は、其処にいなかった。勿論先に帰ってしまったわけではなく、すぐにその存在は見つけだせたが俺は別の意味で驚愕し、同時にあきれ果てた。
 こいつは橋の、俺の腰までしかない石組みの欄干の上に立っていたのだ。
 バカと煙は高い場所が好き、とはよく言うがこうも目の前で実践されると言葉を投げかけてやる気力も失せる。しかし猿野は俺よりも随分と高くなった視界にご満悦のようで、ボロボロの鞄を斜めに肩にひっかけて遠く、夕焼け色に染まる空を見上げていた。
「おー、空が高いぜ」
「いいから降りろ、恥ずかしい」
 人通りが少ないながらも一応ある公共の道のど真ん中、である。後ろを自転車で走り抜けていった買い物帰りらしきおばさんが、クスクスと笑いながら走り去っていく。俺は顔が赤くなる気分で猿野の、高い位置にある背中を見上げた。
 俺がこいつを見上げる事なんて、初めてではないだろうか。
「っせーな。良いだろ、もう少しくらい」
「良くない。とりあえず、今すぐに降りろ」
「お前も来いよ!」
 人の話などまるで聞いていない猿野が、夕日よりも眩しい顔を俺に向けて手招きをする。その瞬間だけ、ぐらっと揺らぎそうになった俺の精神をどうか、誰も笑わないで欲しい。夕焼け色を頬に受けて朱色に染めている猿野の顔を見て、不覚にもさっき夕日を見たときと同じ感想を抱いてしまった俺は、頭がどこか可笑しいのだろうか。
「降りろって言ってるのが聞こえねーのか、バカ猿」
 少しだけ苛立った声を俺は猿野の背中にぶつける。大体、お前が其処にいたら俺が見えないんだよ、前。けれどわざとやっているのか、からかっているつもりなのか、猿野は欄干の上で左右に揺れたり、うろうろしたりと落ち着きがない。そのうち落ちるんじゃ無かろうか、と俺は橋の高さと川の水面までの距離、そして川の深さを気にした。
 落ちたところで、死ぬような奴では無いだろうけれど……怪我でもされたら、辰や他の連中になにを言われるかわかったものじゃない。監督不十分だ、一緒にいながらどうして、と方々から責め立てられるだろう。
 そんな光景を想像してぞっとした俺は、手を伸ばし猿野の制服、その裾を掴んだ。
「降りろっつってんだろ!?」
「バカ、引っ張んなっ!」
 ぐいっ、と後先考えずに猿野の制服を引っ張った俺に、ぐらりと後方へ身体を傾がせた猿野の悲鳴が被さった。ただでさえ足場が狭くバランスも、肩から下げている鞄で後ろに重心が傾き気味だった猿野は俺が引く力を受けて、堪えきれず、それこそ簡単に、落ちた。
 俺の上へ。
「どわっ!」
「ぐはぁ!」
 ふたり分の、野太い男の悲鳴が周囲を圧倒して、直後に訪れるのは異様なまでの静寂さ。
「ってぇ……」
 空中で半回転した猿野は、俺の上に俯せに倒れ込んでぶつけたらしい顎の周辺を片手で押さえ込んだ。
 猿野を受け止めながらも、自分も一緒になって橋の上に転倒してしまった俺は、しこたま背中と腰を打ってついでに猿野にもぶつかられたらしい額を抑え、呻いた。
「この……ガングロ! テメー、もうちっと考えてやれよな!」
 さすがは犬、人類じゃないだけに頭回らないんだな、バカヤロー。散々罵詈雑言を吐き出してくれる猿野だけれど、俺が言いたい事はひとつだった。
「とりあえず……退け、猿」
 いつまでの人の腹の上を占拠してくれてるんじゃない、と下から見上げながら言えば猿野はハッとして、途端慌てて顔まで赤くして俺の上から立ち上がって脇に退いた。俺はそれを待ち、ぶつけたらしい額を抑えたまま上半身を起こす。ぶつけた背中がズキズキと痛む。夜になったら鬱血しているかも知れないと考え、少し憂鬱になった。
「テメーが……悪いんだからな」
「言われなくても」
 今のは俺が引っ張った事が原因だと認め、立ち上がる。ズボンを叩いて埃を払っていると、手の届かない背中の部分は猿野が、何も言わず叩き落としてくれた。少し力が込められていて痛かったが、文句を言う気にもならなかった。
「頭……ヘーキか?」
「……とりあえず」
 赤くなっているかも知れない額をもう一度抑えると、猿野は俯いてそっか、とだけ答えた。右手が忙しなく自分の口元をさすっている。
「ぶつけたか?」
「んぁ? ああ……ちょっと」
 俺が問いかけると、言いにくそうに猿野は口淀み、俺から視線を逸らしてしまう。どこにぶつけたのかは、言ってくれなかった。
 その代わり、俺が気付いた。
 俄に俺の顔が夕日の色に染まっていく。慌ててまた落としてしまっていた鞄を拾い上げ、歩き出す。随分と時間を食ってしまった。路上に伸びる俺達の影は橋の幅を通り越し、欄干の隙間から川へと落ちてしまっていた。
「帰るぞ」
 ぶっきらぼうに言うと、「おう」と猿野は短く返して、二人して歩き始める。
 駅まで、あと徒歩で約八分。
 その間、俺達は一切会話がなかった。

02年4月11日脱稿