エドスは言った。屋根裏部屋にあるものは好きに使ってもいいと。
昔から探検ごっこが好きだった。海賊ごっこも実はやったことがあるし、トム・ソーヤに憧れていとこ達と田舎の林へ死体を探しに行った事もあった――って、これは違うか。
古い蔵を漁って、祖父にこっぴどく叱られたのはいつの夏休みだっただろう。もう長いこと田舎に帰っていないけれど、元気でいるだろうかあの頑固じじいは。
埃臭さに顔をしかめながら、乱雑に置かれた木組みの箱の中身をわくわくしてのぞき込むあの一瞬が溜まらなく気持ちよかった。結局蔵の中を荒らし回っただけで、もう二度と中に入れてもらえなくなったんだけれど。
「兄ちゃん、何やってるの?」
俺が屋根裏部屋でごそごそと家捜しを初めてすぐ、耳ざとく俺の行動を聞きつけたらしいアルバがひょこっ、と小さな頭をのぞかせた。その目はすでに何か面白いことをしているに違いないという、興味津々という思い出キラキラ輝いていた。
「ん? 何かないかなぁ、って思ってさ」
エドスが修理していた椅子とかではなく、もっと他の、例えば俺も子供達も遊べるようなものがきっとあるはずだと俺は踏んでいた。
「ふーん」
よいしょ、というかけ声と共に屋根裏に登ったアルバは、俺の横に来て今俺が漁っている端の壊れた木箱をのぞき込む。
「何かって?」
「さぁな」
探したいものなんて特に決めていない。ただ楽しいものがあればいいな、と思っている。もっとも、今のところ発見できたのは何に使うのかよく分からない伸びきったスプリングだったり、ほつれだらけの毛布だったり、埃まみれの腕が取れた人形だったり。
ここは不要品置き場か? と苦笑してしまいたくなる。
足の取れた椅子をかき分け、俺は更に奥へ向かう。埃が立ちこめてきたので、アルバは俺から離れて反対方向にある窓を開けに行った。
冷たい風が吹き込んできて、差し込んだ日差しのまぶしさに一瞬目がくらむ。そういえば今日は気持ちのいいくらいに快晴だけれど、風がやけに強くて洗濯物が飛ばされてしまう、とリプレがぼやいていたのを思い出した。
「兄ちゃん」
屋根裏部屋の奥の方でぼんやりとしていた俺を、アルバがつつく。
「ん?」
「これ、何?」
我に返って視線を斜め下に向けると、アルバはどこから引っぱり出してきたのか白い、少し大きな紙を持っていた。細い木の枠に貼り付けられた紙、それに俺は見覚えがあった。
正四角形とは違う、どちらかといえば台形の紙の中心部には細い糸が繋がれていて、先は部屋の片隅に伸びていた。よく見れば糸を巻いた芯棒が転がっている。
「へぇ……こっちの世界にも凧なんてあったんだ」
「タコ? これ食べられるの?」
「いや、その蛸じゃなくて……」
純粋に問い返されて俺は苦笑する。なんと説明をすればいいのかすぐに思いつかず、俺はアルバから凧を受け取ると空を指さした。
「空に飛ばすんだ」
今日みたいな風の強い日ならば、さぞかし高くまで登ることだろう。強すぎて、逆に辛いかもしれないけれど。
「ふーん」
凧を下から眺めながらアルバが不思議そうな顔をする。やはり説明がまずかったのか、いまいち理解できていないようだ。
「なんなら、今から飛ばしに行くか?」
だが言ってから、俺は気付いた。
握っていた骨の部分が変な方向に曲がってしまっている。少し力を込めたら、本来あり得ない形で凧は折り畳まれてしまった。
「あちゃ」
「兄ちゃん……」
非難の目でアルバが俺を見たが、どう考えてもこの凧は最初から壊れていた。俺が壊したんじゃない、断じてそれはあり得ない! ……気付かなかった俺も間抜けだけど。
「あ、でもこれくらいだったら俺でも直せるかも」
もともとそんなに凧の作りは難しくない。小学校時代に手作りの凧を飛ばしたことだってあるし、部品さえ揃えば新しく凧を作ることも可能だろう。この凧は、骨組みさえ補修してやればそれでいい。
「下に行こう」
「飛びそう?」
「なんとかなるって」
ぽん、とアルバの頭を叩き、俺は一足先に屋根裏部屋から脱出した。
「なあに? それ」
広間ではフィズとラミがクレヨンを手にお絵かきをしていた。リプレは昼食の準備らしく、台所をのぞくと忙しそうに動いているのが見えて声をかけるのに気が引けてしまう。
「タコだって」
「タコ? 食べられるのこれ?」
アルバの説明に、アルバと同じ事を問い返すフィズにまた失笑してハヤトは庭に出た。凧の補強に使う木を探すためだ。
「細い枝……っと、これなんかいいかも」
薪用に拾ってきた枯れ木の中から手頃な太さと堅さを持っている枝を引っぱり出し、ハヤトは広間に戻る。するとまだアルバは必死になってフィズ達に凧の説明をしている最中で、でもアルバも実際に凧が揚がっているところを見たことがないから、どうしても話が混乱してしまうらしい。泣きそうになっていた。
「にいちゃぁ……」
「はいはい。男なんだから、こんなぐらいで泣いてたら格好悪いぞ?」
「うん……」
優しくアルバの頭を撫でてやると、ハヤトは今拾ってきた枝を床に置いた凧の折れた骨の部分に並べてみる。
「少し太いか」
木の枝だけを見たときはちょうどいい感じだと思ったのだが、実際に並べてみると案外そうではなくてハヤトはどうしようかと首をひねる。
「削るか……」
かといってこれ以上細い枝では弱くなってしまう可能性もあって、仕方無しにハヤトは自室からナイフを持ってきた。場所も、広間から庭に面する日当たりの良い縁側に移動する。ここなら、木屑が出ても庭に落とせばいいだけだ。
「何をやっているんだい?」
「キール兄ちゃん、あのね、たこ揚げだよ」
縁側に足を下ろし、ハヤトは持った枝をくるくると回転させながら削っていく。
「たこ揚げ?」
「うん。今ね、ハヤト兄ちゃんが直してくれてるの」
「キールは凧、知ってるのか?」
キールとアルバ、ふたりの会話を背中で聞いていたハヤトが肩越しに振り返って尋ねる。しかも手はまだナイフを握ったままで。
「一応……本で見たことだけなら。そういう遊びがあるという程度しか知らないけれどね」
「へー。じゃ、やっぱりこれって凧なんだ」
「…………確信があった訳じゃないんだね」
素晴らしく的確な突っ込みがキールからもたらされ、ハヤトは苦笑いを浮かべた。枝を削るナイフを下ろし、角の丸くなった枝を再び凧の骨に重ねてみる。今度はちょうど良い太さになっていて、ハヤトはナイフを置くと次の行程に移ろうとした。
だが、やはり難問にぶつかって手が止まる。
「接着剤なんて……あるわけないよなぁ」
「糊ならあるけど」
ハヤトの横に腰掛けてキールが呟く。
「うーん……それで問題ないと思うけど……」
今ひとつ自信が持てなくてハヤトは頬を掻く。だが後ろではアルバとフィズがどたばたと走り去り、すぐに糊の入った瓶を抱えて帰ってきた。
「兄ちゃん、これでいいの!?」
「あ……うん。ありがとう」
これで飛ばなかったら申し訳ないなぁ、と小声で呟いたハヤトに、
「僕も手伝うよ」
キールが笑って言った。
「どうせなら、全員分作ってみるかい?」
唐突に彼がそう提案したものだから、にわかに後ろで歓声が上がってハヤトは前につんのめりそうになった。振り返り見ればそこにぬいぐるみを抱いたラミがいて、しっかりとハヤトの袖を掴んでいる。
何かを期待する眼差し……目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので、一番大人しいラミにまでねだられてしまっては、もうこれは、やるしかない。
「キール、責任持って最後までつきあえよ」
言い出したのはお前なんだからな、と釘を刺してハヤトは立ち上がった。
「紙と紐!」
いきなり叫んだ彼にみんなは目を丸くするが。
「作るんだろ? 人数分」
「あ、ああ……」
にかっ、と笑ったハヤトに言われ、それが凧に必要な材料だと思い出したキールも慌てて立ち上がった。
「俺は骨にする木の準備だ。薪を細くしてけば、なんとかなるだろ」
ここに来てから薪割りも仕事のうちに入っているハヤトだ。最初は不慣れだった斧の扱いも今は手慣れたもので、思い通りの太さにすることも出来るようになっていた。ただ凧に使うような細さまでやったことはないが……。
「ある程度まで細くしたら、あとはナイフで裂けばいいか」
「ねえねえ、私のに絵、描いてもいい?」
さっきまで使っていたクレヨンを持ってきて、フィズがハヤトに訊く。ラミもその後ろに隠れつつハヤトの返事を待っていて、
「構わないよ。好きなように描いてくれて」
そういえばこの子達はお絵かきをしている最中だったっけ、と思い出してハヤトは頷いた。途端に「やったー」という歓声には毎度の事ながら驚かされるが。
「なんだか大騒ぎね」
食事の支度が一段落着いたのか、エプロンで手を拭きながらリプレが様子をのぞきに来る。
「リプレ母さん、あのね、兄ちゃん達に凧を作ってもらってるの!」
「へえ、良かったわね」
「うん!」
洗濯物が飛んでいないかを確認するため、庭に下りてきた彼女はそこにハヤトの姿を見付けてそそくさと寄ってくる。
「ねえ、ハヤト」
「ん?」
慎重に、途中で割れてしまわないように薪に斧を入れていたハヤトが手を止めて顔を上げる。
「あのね、ハヤト」
至極真剣な顔で見つめてくるリプレにハヤトは訝しむが、
「あのタコはいくら私でも料理することは出来ないんだけど……」
「…………」
どうしてみんな同じ事を言うのかなぁ、しかも真面目に。がくっ、と傾いてハヤトはヒクついた笑みを浮かべることしか出来なかった。
なんだかんだあったものの、試行錯誤の末ようやく凧は完成した。
最初に屋根裏で見付けた凧はハヤトが、真っ白のままで骨を補強したのみに終わらせる。そのかわりに、子供達のために新しく一から作った凧には、子供達自らが描いた絵で色鮮やかに飾られている。
「邪魔な建物がない広い場所って言ったら、やっぱりアルク川の河川敷かな」
そんなわけでハヤト、キールを含め合計五人は連れだってアルク川へ向かった。なんとなく幼稚園の引率の先生になった気分になったのは、ハヤトだけだっただろうが。
「じゃ、先に俺がお手本見せるから。キール、頼むな」
河川敷に着くと、ハヤトは持っていた凧をキールに預けて自分はその中心から伸びる糸の先を持つ。だがキールは一体どうすればいいのか分からないようで、いきなり凧の本体を預けられたことに困惑している。
「ハヤト、僕は……」
「大丈夫だって。これを高く掲げて持って、俺が合図するまで一緒に走ってくれるだけでさ」
難しくないよ、と笑ってハヤトは緊張で固くなっているキールの肩を荒っぽく叩いた。一瞬息が詰まって前に傾いだキールだが、叩かれた部分の熱さにそっと手を触れ長く息を吐く。
「分かった。ハヤトと一緒に走ればいいんだね」
「一緒って言っても、並んで走る訳じゃないからな」
そんなことをしたら無意味で、滑稽すぎるとハヤトはまた笑って言う。だけど実際にたこ揚げをするのはこれが初めてのキールは、彼が何をそんなに面白がっているのかが分からず眉をひそめるに留まった。
「兄ちゃん、早くやろうよ」
ふたりいつまでも動こうとしないので、アルバがせっついてきた。
「そうよ、ふたりだけでこそこそお喋りするんだったら、他ですればいいのよ」
フィズまで腕を組んでお怒りの様子で、
「悪い悪い」
気が付いたハヤトが苦笑して謝る。悪気はなかったのだと両手を合わせて頭を下げる素振りをする彼を眺めて、キールは自分にはそれが出来ないことを実感してしまう。
そうだ。自分たちはこんなにも今まで生きてきた世界が違っている。
知識があっても、実際にやってみなければ事の本質は見えないし、正しく思い描くこともできない。たかが遊びでしかないたこ揚げだって、風の流れを正確に読み、その流れに巧く凧を乗せなければいけないのだから。
まだこの世界には、キールの知らない事が沢山ある。
「僕に時間はあるのだろうか……」
「? キール、何か言ったか?」
ぽつりと呟いた言葉は、だが音だけがハヤトに届いただけで内容までは伝わらなかったことにキールは安堵してしまう。
彼には知られたくない。自分はこんなにも浅はかで愚かしい惨めな人間であることを。
――君を見ていると、僕がどれほどにちっぽけな人間であるかを、思い知らされる……
嫌いなのではない。ただ、どうしても見比べてしまう。そして自分が劣っていることを感じて自分が嫌になる。何故もっと違う生き方が出来なかったのだろうと……今更変えることの出来ない過去が恨めしく思えて仕方がない。
「キール、行くよー!?」
前方でハヤトが長く伸ばした糸を持って叫んでいる。
「ああ、いつでも!」
キールも負けじと大声を張り上げるが、だがそれは、今己が考えている内容を頭から追い出すためでもあった。
彼らから少し離れた場所では、子供達が自分の凧を胸に、わくわくした面もちで見守っている。
凧をみっつも作るのに時間がかかり、間に昼食を挟んで今はあと少しで夕暮れという時間帯で。風も朝よりは幾分収まったもののまだ上空はかなり強く吹き荒れているらしく、白い雲は西から東へかなり速いスピードで流れていた。時折雲の影が地上を覆い隠すが、すぐにまたいつもの日の光が戻ってきて周囲は明るくなる。
ハヤトが駆け出した。
糸に引かれる形で、凧を頭上に高く掲げ持つキールもペースを合わせて走り出す。向かい風の中を。
空気の圧迫感が腕を痺れさせる。意外に大変な作業なのだなと、向かい風を耐えながらキールは思った。そして同時に、今こうして凧を持って走っている自分を想像しておかしくなる。
かつて、父の元にいた頃はたこ揚げをする日が来るだなんて、思いもしなかったのに。
ただ魔導書を読みふけり、召喚術を学んで、来る日も来る日も異界の住人との契約を交わそうと必死になって真の名前を探して。
美味しいものを食べたり、仲間と喜びや悲しみを分かち合ったり、将来について空が白むまで話し合ったり。それが生きていることなのだと。
今までの、自分が生きているのかどうかも疑わしい日常から抜け出すことが、どれほどに自分の命を感じられるのかを、ここに来ることで、知った。
だからもう戻れない。あの色のない居場所には。
数え切れない程の彩に囲まれたこの居場所を知ってしまった今では。
もう、父の元には帰れない……。
「キール、今だ!」
ハヤトの声が聞こえる。現実に引き戻された。
キールの両手から風を受けた凧が離れて行く。一気に、速度を増して風に乗り、真白い凧は青空に呑み込まれてゆく。
あれは今の自分だと、空へ伸びる糸を目で追いその先の凧を見付け、キールは肩で息をしながら思う。
自由になったと錯覚を憶え、風のように空に浮かんでいるけれど実際あの凧は糸で地上とつながれている。どれほど空高くに舞い上がろうとも、決して地上からは逃れられない……哀れなピエロだ。
自分の思うとおりの生き方を選んだつもりでも、どこかで誰かに操られた末に見た虚像の未来しか手に入れていないのだとしたら。
それほど愚かなことはない。
自分は未だにオルドレイクの掌で踊らされているだけなのだと。
泣きたくなった。
「キール?」
顔を上げればそこにハヤトがいて、思わずのけぞって離れてしまう。いつ側まで戻ってきたのだろうと訝しんでいたら、いきなり凧糸を渡された。
「俺、あいつらの方手伝ってくるからさ。これ頼むな」
彼が指で指し示したのは、空をうっとりと眺めている子供達だ。
「あ、ああ……分かった」
まさか自分の今の気持ちを読みとって、話し掛けてきたのではあるまいとあり得ない事を考えてしまったキールは、気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしてハヤトから糸と芯棒を受け取った。
瞬間、ぐいっと上に引っ張られてその強さに驚く。
「気をつけないと、風にさらわれるからな。結構上、風強いみたいだから。調子乗って高く揚げ過ぎたんだ」
てへ、と舌を出したハヤトはキールを残して子供達の方に駆けていく。最初はやはり男の子のアルバからのようで、フィズが何か文句でも言ったのだろう。なかなかたこ揚げにまで至れずにいる。
自分はあそこまで面倒見が良くなれない。最近は慣れたが、やはり人と深く接するのは苦手だ。
煩わしいとさえ思うこともある。だがそれではいけないのだと以前にハヤトに言われてしまったし、努力すると自分も公言してしまったから今更後にも引けない。
だからといって後悔しているとか、そういう気持ちは全くない。ただやはり、まだ人が大勢いる場所は息苦しくなる。そんなときにハヤトが側に寄って来てくれて、心配そうに顔色をうかがってくれる。それは悪い気がしないし、なにより彼が近くにいてくれると安心する。
と同時に、自己嫌悪に苛まれてしまうのだが。
ひとりで生きて行けるのだと思っていた。
自分にはそれだけの力が備わっていると信じていた。
だけど違った。
結局どれも、自分よがりの勝手な思いこみでしかなく。迷うことなく、疑いすらせず受け入れたはずの自分の死を恐れたばかりに、ハヤトをこの世界に引き込んでしまった。
助けて、と。
誰にも聞こえないはずのあの時の悲鳴が本当に彼に届いたのだとしたら。
彼ならばこの運命を変えられるのかもしれないと思うのも、やはり自己中心的な勝手な妄想でしかないのだろうか。
助けて、と。
確かにあの時、自分は思っていた。
死にたくないと。
生きていたいと。
それは罪か?
突風が吹く。キールの白いマントが激しく煽られ、前に流れてきた少し長い自分の髪に驚いてキールはつい、手を離してしまった。
白い指先からこぼれだした細い、細い糸が風にさらわれる。
「あ!」
叫んだときにはもう、手遅れで。
必死に伸ばした手をすり抜けて、カラカラと芯棒に巻かれた糸がほどけていく。凧は風に乗ってどこまでも高く舞い上がり、カン、と糸を失った棒だけが地上に残された。
まるでキールから逃れ行くように。
地上のしがらみと、すべての迷いから逃げ出すように。
空と大地の鎖は断ち切られた。わがままで傲慢な風によって、実にあっけなく。
「あーあ……」
「飛んでっちゃった」
子供達からもため息混じりの非難する声が聞こえ、キールは消えてしまいたいとさえ思った。どうして手を放したと、自身の両手をきつく睨み付け、強く握りしめる。爪が拳に食い込んでも、その痛み以上に心が悲鳴を上げていた。
「キール」
力無くうなだれている彼の前に、駆け寄って来たハヤトが回り込む。
「…………ごめん…………」
蚊の泣くよりももっと細い声で、キールはハヤトと顔を合わさずに呟いた。
「キール、君の所為じゃない」
誰だってあんな急に、あんなに強い風が吹いたら驚くよ、とハヤトは言ったがキールは黙って首を振るばかりで、顔を上げようともしない。
ふう、とハヤトは分からないように息を吐いた。小さく肩をすくめて首を振り、もう見えない白の凧が消えた空を仰ぐ。
「嬉しかったんだろ、きっと」
腰に手を当て、ハヤトは白い歯をのぞかせながら笑う。
「あの凧、ずっと屋根裏で埃かぶって忘れられてたんだぜ? 久しぶり……いいや、もしかしたら初めてだったのかもしれない。空に登って、浮かんで、きっと嬉しかったんだよ。だからもっと高い場所に――俺達の手じゃ届けてやれないような空高くに行くために……凧が風にお願いしたって、思えばいいじゃん」
だからキールは、捕らわれていた地上からあの白い凧を解放したのだと、ハヤトは照れもせずに言ってのける。
そんなはずはないのに。
「凧はまた作ればいい。でもキールは一人っきりしかいなくて、変わりはいないんだから。キールが凧と一緒に空に飛んでいってしまわなくて良かった」
「ハヤト……」
「……やっと、俺を見たな」
下ばっかり見てると健康に良くないぞ、と嘯いてハヤトはキールの肩に手を置こうとした。しかしその伸ばした手をキールがかすめ取り、かわりにハヤトの肩に彼の顔が埋められる。
「君にはかなわないよ」
「え? 今なんて言った!?」
くぐもった音だけがハヤトに聞こえて、片手を拘束されたままのハヤトが目を泳がせて叫ぶ。
「なんでもないよ」
キールがハヤトに接していたのはほんの一瞬で、すぐに彼は離れていく。握られていた手を解放されたハヤトは、誤魔化すように笑う彼をジト目で睨んだ。
「兄ちゃん達、早くやろうよ!」
向こうでアルバとフィズが待ちきれない、と大声でふたりを呼ぶ。
「今行くよ」
ハヤトの代わりにキールが返事をし、行こう、と手を差し出す。
まだ少し納得がいかないのか、ハヤトは最初渋ったが子供達の声に負けて走り出した。悔しいから、キールの手は取らないで。
「…………かなわないな」
置いて行かれたキールもそう呟くと、彼を追いかけて駆け出す。
朱と碧の混じる空に三つの凧が仲良く並び、風を受けて揺れている。
高く、高く、どこまでも高く。