その日は朝からずっと、雨だった。
どんよりとした空は今にも落ちてきそうなばかりで、鈍色の雨雲は何処までも世界を覆い尽くしている。地平の果てまで続いていそうな雲に、一面ガラス張りの窓から外を眺めていたユーリはふっと、息を零した。
それは溜息に似ていた。
雨の所為か、表情も幾らか影って見える。今自分ひとりしか居ないこの部屋は、ひとりで使うには充分すぎるほどに広くてそれが逆に、空気を冷やし音を奪っている。
彼の耳には、庭に育つ木々の葉に落ちて跳ね返るその雨音しか響いてこない。樹木にとってこの雨は恵の雨であるのだろうが、ユーリにしてみればこの重苦しく冷えた空気は憂鬱な気分しかもたらしてくれない。
もう一度、息を吐く。
硝子窓に息が当たり、その周辺が一瞬だけ白く曇る。片手を添えてみれば、指先が少しだけチリチリとした痛みを覚えるように、窓は冷たかった。
雨は止みそうにない。天気予報では夕方前には落ちつくだろうと伝えていたが、それは誤報ではないかと疑ってしまいたくなる程に、雨足の変化は見られない。それどころか益々、降雨の勢いは増している気がする。
止まない雨。
こんな日は何をする気にもなれない。茹だるような暑さの日も好きではないが、少なくともこんな、鬱陶しいばかりの雨空よりは数倍マシだろう。
ふと、雨音で遠くなっている聴覚にそれ以外の何かが鳴り響いた。
「…………?」
窓に手を添えたまま、足下ばかりを見ていた目線を持ち上げる。
勢いの変わらない雨は透明なガラス窓でさえ視界を奪っている。霞む庭の光景は先程と何も違っていない。しかし、違和感を覚える雨のワルツとは異なる声色は確かに聞こえてくる。
「なんだ?」
試しに窓を開いてみる。吹き付けてくる風に押し流された雨粒が一気に窓の隙間から押し寄せてきて、ユーリの前髪を攫い彼の身体を容赦なく濡らしていく。
台風でも接近しているような雰囲気の中、彼は雨降りしきる庭に足を下ろした。
全身は既にびしょ濡れの、濡れ鼠状態。たっぷりと水分を吸い込んだ髪は重く貼り付いている。腕を持ち上げてひさし代わりにするものの、その努力は報われる事などなかった。
かろうじて保たれる微かな視覚と聴覚だけを頼りに、ユーリは広大な庭を見回した。確かこっちから聞こえたはず……と勘を頼りに滑りやすい芝を一歩一歩踏みしめて進んでいく。
普段ならものの五秒もかからずに辿り着ける場所が、嫌に遠くに感じた。
茂みのような庭の植木を手でかき分け、落ちてくる巨大な水滴を払いのけてようやく、彼は地面の上で小さく震えているものを見つけだす。
まだ若い木の根本に身を寄せるようにして、全身をユーリ以上に雨に濡らしていた灰色の仔猫が突然現れた彼を見上げて、心細そうに鳴いた。
仔猫を腕に抱き上げると、想像以上に軽くて驚く。もう逃げ出す元気も残ってないのか、落ち着かないダークブルーの瞳は不安を表現しているけれど仔猫はユーリの腕の中でじっと動かない。
微かに抱いた腕から仔猫の命の鼓動を感じて、ユーリは急いで開け放しだった窓から屋内に入ると窓を閉める事もせず、反対側の扉を開けた。
歩くたびに衣服が吸い込んだ大量の雨水が垂れて痕を残す。廊下を敷き詰めているカーペットが靴裏の泥を受け止めてくれるが果たして、これは誰が掃除するのだろう。
アッシュが見れば絶叫しそうな汚れをそこかしこに残す事も構わず、ユーリは仔猫を抱いたまま廊下を進み最終的にこの城で一番広い部屋――リビングに相当する一室に足を踏み入れた。
「アッシュ!」
ばんっ、と扉を押し開けて開口一番叫ぶが、返事はない。
そのかわり、両手にギャンブラーZのフィギュアを握って、どうやら……遊んでいたらしいスマイルが床の上に座った状態で振り返った。
「アッシュなら、さっき買い物に行ったよ~?」
相変わらずの暢気でおちゃらけた声にユーリは明らかに落胆の表情を浮かべる。
それが見えてしまったらしい、スマイルは一瞬不満そうな顔をするがすぐに、ユーリの様子がいつもと違うことにも気付いて手にしていたフィギュアを置いた。そのまま立ち上がる。
「どうしたの?」
そんなに濡れて、と言いかけた言葉が途中で途絶える。座ったままでは見えなかった、ユーリの腕の中にいる仔猫の存在に立ち上がった事で気付いたからだ。
「その子は?」
「ああ……庭に迷い込んでいたらしい」
傍まで来たスマイルが仔猫を指さして問いかけ、ユーリも額に貼り付いた銀髪を片手で掬い上げるながら答える。指先に珠の形をした水滴が転がり、フリーリングの床に跳ねて砕け散っていった。
「へぇ……」
新たに現れた包帯ぐるぐるのスマイルに明らかに怯えた表情をする仔猫をじっと見つめ、それからふっと視線を持ち上げてユーリを見た彼はしばらく、其処で待つようにユーリに言った。
「?」
どうする気なのか、と不思議そうにするユーリを置いてスマイルは一度踵を返してリビングを出ていく。そして一分も待たないうちに戻ってきた。
両手にバスタオルを抱えて。
「はい」
うち一枚を片手で振って広げると、それを空気抵抗に任せてユーリの頭上に落とす。唐突に視界がゼロになったユーリは驚いてそれをキャッチし、その隙にスマイルは彼から仔猫を奪い取った。
軽くなった腕に、ユーリは慌ててタオルを持ち上げて視界を確保する。何をする、と叫ぼうとした彼だったが、意外にもスマイルはもう一枚持ってきていたタオルで仔猫をくるみ、優しく拭いてやっているところだった。
「ユーリも、身体拭いて着替えて来た方がいいと思うけどねぇ」
そのままだと風邪引くよ? と柔らかな手つきで仔猫の身体をタオル越しに撫でているスマイルが言う。彼に指摘されて、ようやくユーリは自分もすっかり雨に濡れて身体が冷え切っている事を思い出した。
「あ……」
「この子はぼくが見ておくから。大丈夫だよ?」
心配要らないから、と微笑むスマイルに押し切られる形で結局、ユーリは庭で見つけた仔猫を彼に預けることに決め、自分は着替える為にリビングを出る。
頭の上には相変わらず真っ白い洗濯されたタオルが載っている。その端を掴み持ち、頬を濡らしている雫を拭って彼は軽く布地を噛んだ。
首を振る。動きに合わせて普段なら軽やかに揺れる上衣も、今は雨を吸って重くなり反応が鈍い。ぽたぽたと垂れる雫は相変わらずカーペットを濡らして、まるで蝸牛が這った痕のようだった。
再びスタート地点である自室に戻ったユーリは、そこで雨晒しになっている窓辺を見つけてようやく、自分が窓を閉め忘れたことに気付く。泥を混じらせた雨が床一面を濡らしていて、それは部屋の中央まで達していた。
「…………もう、この部屋は使えないな」
溜息混じりに呟くと、クローゼットから適当に着替えを見繕って手に抱え、またしても窓を閉めることなく彼はバスルームへ向かって歩き出した。
シャワーを浴びて、冷え切っていた身体を暖めたユーリはこざっぱりとした服に着替えてリビングに向かった。今度はシャワーの所為で湿り気を帯びている髪をタオルで拭きながら、仔猫がどうなったか心配になって自然と足は早くなる。
「スマイル」
閉められていた扉を押し開けると、やはり床の上に直に座っている彼が声に気付いて顔を上げた。
「あったまった?」
どうやらユーリがシャワーを浴びていた事も知っていたらしい。主語の抜けた言葉にコクリと頷いて、ユーリは視線を巡らせる。
すると彼が何を捜しているのか理解したスマイルが小さく笑って、胡座をかいて座っている自分の前を指さした。
白い小皿を前に、白い毛並みの猫がミルクを飲んでいる。少し温めてあるのか湯気を薄く立てているミルクは、スマイルが台所から拝借してきたもののようだ。しかし、あの灰色の毛並みをした仔猫は一体何処へ?
首を捻り、入り口に立ち止まったままでいるユーリを今度はスマイルが不思議そうな顔をして見返す。
「どうしたの?」
「いや……その猫は?」
ミルクを無心で飲んでいる白い猫を見つめ、先程自分が庭で見つけてきた仔猫は何処へ行ってしまったのかと彼は真顔でスマイルに問いかけた。心配要らないから、とスマイルが言うから任せたのに、と言外に咎めている口調に、今度こそスマイルは眉間に皺を寄せてユーリの側へ行き、ぽん、と肩を叩いた。
「あのねぇ、ユーリ?」
何処か力の無い声で、スマイルは言う。
「あの猫が、ユーリの拾ってきた仔猫なんだけど?」
「え?」
一瞬だったけれど、怖ろしく間の抜けた顔をしたユーリがスマイルを見返した。
それだけでも得をした気分になったスマイルだが、顔がにやけかけるのを寸前で押し留め、ミルクを飲み干し満腹顔になっている仔猫を抱き上げた。
「ほら」
そう言って、ユーリに手渡す。
すっかりご機嫌になっている仔猫は、さっきまであんなに濡れていたのが嘘のように全身がふわふわで柔らかく、暖かかった。両手で抱きかかえてやると、甘えたようにごろごろと喉を鳴らしてすり寄ってくる。
それは確かに、あの灰色の仔猫だった。
しかし何故、こんなにも色が違ってしまったのか。問いかけるように目線を上げたユーリに、スマイルは苦笑する。
「タオル、三枚も真っ黒にしちゃった」
それだけ汚れていたのだと言葉の裏に隠して、彼はユーリの腕の中で気持ちよさそうにしている仔猫を撫でる。最初はあんなに怯えていたはずなのに、すっかり彼に懐いている仔猫に少しだけむっとして、ユーリはふいっと予告もなくスマイルに背を向けた。
そしてソファへと進みどかっと腰を下ろす。
革張りで弾力のあるクッションに身体を沈め、自分も抱きしめた猫に指を沿わせて毛並みを撫でる。すり寄ってくるのが楽しくて、そのまま頬を寄せて自分からも頬ずりしていると、向こうでスマイルが羨ましそうでそれでいて恨めしそうな目をしているのが見えた。
拗ねている。ありありと手に取るようにそれが解ったユーリだったが、構ってやる義理もないので無視しているとそのうち本格的に拗ね始めたらしく、スマイルは彼に背を向けて床に置き去りにしていたギャンブラーZでまたひとり遊びを始めてしまった。
苛めすぎただろうか。そう思う気持ちも少しはあるのだが、あまり構い過ぎると調子に乗ってくるのでもう少ししてから声を掛けてやろう。
スマイルが見ていないことを良いことに表情を和らげて笑みを形作らせたユーリの前で、矢張り硝子一面の窓の向こうが少し明るくなってきていた。
「あ、雨止んだみたいだねぇ」
スマイルも、外からの採光の度合いが変化したことに顔を上げ、立ち上がる。窓辺に寄って鍵を外し、少しだけ開けて外を覗く。
「止んだか?」
ソファに腰掛けたまま、膝の上で猫の背を撫でていたユーリが問う。上半身だけ振り返ったスマイルがうん、と頷いた。
その声に反応したわけではないのだろうが。
ぴくん、とそれまで大人しく撫でられていた仔猫が耳を立てた。頭を持ち上げ、周囲を伺うように視線を巡らせてそして、最終的にスマイルの居る窓に首の向きを定める。
「あっ!」
止める間もなく。
ユーリが手を伸ばした時にはもう、真っ白い毛並みの仔猫は彼の膝を飛び出してスマイルの元へと駆け出していた。
仔猫は、スマイルの股間を抜けて開かれていた窓から外へと飛び出し、雨上がりの芝の上を勢いよく走り去る。それは本当に、一瞬の出来事だった。
「あ~あぁ……」
足下を神風のように駆け抜けていった仔猫が庭の茂みに消えていくのを見送って、スマイルは溜息をついた。
「行っちゃった」
まさか逃げ出すとは思ってもみず、自分の不注意だったかとカラカラと静かに窓を閉めた彼はユーリが気落ちしているのではないかと不安げに振り返った。
しかしユーリは、妙にさばさばとした顔をしていた。視線は何処か遠い場所を見ているようで、少し寂しげにも映る。
まだ僅かに湿っている髪を掻き上げ、小さく首を振った。
「ユーリ」
窓辺から離れ、ソファへと歩み寄る。
自嘲げにも見える皮肉な笑みを片手で隠している彼には、この言葉は届かないかもしれないけれど。
それでも、スマイルは言っておきたかった。
「なんだ」
仏頂面のユーリが顔を上げて彼を見返す。視線が重なった。
「ぼくは、ずっとユーリの傍に居るからね」
一瞬間が空いて。
先に視線を外したのは、ユーリ。
「…………馬鹿者…………」
横を向いたまま、随分と時間がかかって彼はそれだけを小声で口に出して。
それから。
「……そんなこと、当然……だろう……」
とても言いにくそうに口をモゴモゴとさせて言った彼に、スマイルはいつになく楽しげに微笑んだ。