玻璃の月

 かつん、と硬質の音が窓から差し込む月明かりだけの薄暗い室内に響いた。
 吹き込む冷たい風は白いカーテンを揺らし、まるでワルツを踊っているかのようだった。昼間は騒がしいだけだった城の喧噪さえ今は遠い。すべては鏡に映し出された虚像の如く、戦と言う血臭に濡れた世界は闇の中だ。
『…………』
 彼は、僅かに変化した空気の流れに閉じていた意識を開く。ベッド脇の壁に無造作に立てかけられただけの剣が、不機嫌な気配を醸し出しながらその双眼を窓辺に向けた。
「なんじゃ、狸寝入りか」
 透き通った水晶のような声がカラカラと空気を震わせる。ふわり、と空に浮き上がるローブを身に纏い、少女は不遜な態度を崩すことなくそこに、腰を下ろしていた。
 部屋の主は彼女ではない、もっと骨太く粗暴な男だ。今は恐らく、まず間違いなく、仲間を引き連れて酒場で大騒ぎをしていることだろう。だがなかなか用心深い彼は部屋の戸の鍵はしっかりとかけていった。その割に、窓を閉め忘れていったのだが。
 その唯一の外界との接点に彼女は座っている。しかしこの部屋は高層階にあるのだ、この高さまで登るための梯子があるわけではないし、木登りも彼女には似合わない。それに第一、そんな木は何処にも生えていない。
「久しいの」
 カラカラと笑い、少女は両手を窓枠に置いた。本格的にその場所に腰を落ち着けるつもりらしく、そこから幾らか離れた場所に居る彼は、不機嫌を隠すことなく月明かりを背負う彼女を睨んだ。
『何用か』
「そう邪険に扱わずとも良かろう?」
 目を細め、愉しそうに彼女は睨みを受け流した。
「数少ない同胞ではないか」
『月は夜の眷属よ。同胞などという生温い言葉で表されたくないわ』
「それは失礼をした」
 だが少女の口調は本当に反省しているような色を欠片も含んでいない。たたえる笑みは穏やかになったものの、彼をからかう調子はまるで変わっていない。
 吹き込む風に揺れる髪を掻き上げ、彼女は一度薄暗いままの室内を見回した。壁に掛けられているランプは長い時間灯をともされた気配がない。少なくとも今日一日は一度も火が入っていないと考えるべきだろう。
「あ奴は?」
『どうせ酒場であろう』
「あぁ、そういえばそうだな」
 人気のない室内は、荷物も少ない。ベッドと、少しばかりの着替えと、武器を手入れするための道具が隅の方に積み上げられている。他に何もない。
 戦時中である、いつでも移動できるように――万が一城が陥落した場合、荷物を少なくできるように最低限のものしか傭兵は持ち歩かない――彼が心がけている証拠だ。
 しかしそれは同時にとても哀しい。この部屋は、確かにあの男が生活の場としているはずなのに、生きている人間の汗くささや、息づかいが感じられないのだ。
「あくまで、仮の宿にすぎぬと……」
 窓枠に置いてあった腕を抱き、彼女は呟く。その囁きを聞き逃さなかった彼――星辰剣は不思議そうな顔をした。
『あの男が気に入ったか?』
「戯れ言を」
 細められた処女の瞳が真っ直ぐに星辰剣を射抜く。口元は相変わらず笑みを残したままであるが、瞳は冷め切り、感情を見せない。
 見た目は幼さを残す少女であるが、彼女は既に五百年という歳月を重ねてきているれっきとした、27の真の紋章を継ぐひとりである。その年月の多くを孤独に過ごしてきた彼女にとって、人間などほんの一瞬を通り過ぎていく風のような存在なのだ。
 追いかけても捕まえることは出来ない、すり抜けて言ってしまう風は決して彼女の手元には残らない。ならばいっそ、諦めてしまえばいい。最初から期待しなければ、裏切られたと思うことも置いて行かれたと感じることもなくなる。
『仮の宿は、主も同じではないか』
「言われるまでもない」
 腕を解き、彼女は再び星辰剣に向き直った。
 ネクロードは倒した、奪われた月の紋章も取り戻した。彼女が長年旅してきた理由は無くなった、だから再びあの何もない、ただ静かに時が過ぎていくだけの村に戻る日が来るのだろう。今、この時間をこの城で過ごしているのはほんの戯れに過ぎない。
 27の真の紋章が選んだ少年、始まりの紋章の片割れを宿す少年が選び取る未来を見ていたいという小さな好奇心のたまものだ。
 どうしても重ねてしまう、あの小さな少年の姿に。
 漆黒の闇を背負い、ただ独り宛もない放浪の旅を続けていた少年を、思い出す。
「あ奴は死んだのかのぉ」
 窓の外、静かに地上を照らす月を眺めて彼女は呟いた。
『誰のことだ』
 怪訝な顔をして星辰剣が問うが、彼女は答えない。黙ったまま遠くなった時代を邂逅しているようだ。
「人間であり続けることは、存外に難しい事じゃ」
『?』
「それ故に……わらわは楽な道を選んだ。自ら山に入り、人との交わりを避け、逃れてくる人々に偽りの安息を与え続け……そして今は、己の心を凍らせておる」
『シエラ?』
 独白は寂しげだ。声は澄んでいるがどこか暗い。
「あ奴は、最後まで人であり続けることを選んだ……追っ手を逃れるために、心休まる日など無かったであろうに」
 零れた溜息はガラスのように呆気なく砕け散る。今彼女の瞳に映し出されているのは夜闇の中の月ではない、遠い昔に出会った人間の姿だ。
 幾度道を交えようと、どれだけの時間が地上を流れすぎていったとしても、お互いだけは少しも変わることなく、色あせない記憶と同じ姿を保ち続けていた。
 望まなかった力を手にしてしまった為に、すべてを失った過去は共通。探し求めるものがある自分と、己を探す手から逃れるために旅を止めることが出来ない少年は。共に旅をすることは結局無かったけれど、数十年に一度は必ず、道の何処かですれ違った。
 まるで紋章同士が惹かれあっているように、必ずと言っていいほど、ふたりは再会し、互いの無事を確認しあって別れた。短く会話を交わすこともあれば、本当にすれ違うだけの日もあった。余計な言葉をかけることはなく、ただ必要なことだけをぽつぽつと告げて情報を交換しあう、それだけの関係だった。
 ただ、彼はいつも傷ついた顔をしていた。
 彼は人と触れあい、そして傷つく結果しか生み出さないと知りつつ深く関わり合おうとした。結果は同じなのに、彼は学習しようとしない。
 彼が右手に宿していたのは死の紋章、ソウルイーター。人の命を糧とする紋章が彼の中にある限り、彼の周囲には常に死がつきまとう。決して逃れられない、それが彼の宿命だった。
 いつだったか、言ってやった事がある。いい加減、人間のフリを止めてしまえと。そうしたら彼はなんと答えた?
 ――そんなコトしたら、俺が今まで生きてきた意味ないだろ? 俺を産んでくれた母さんや父さんや、守ってくれたじいちゃん、助けてくれた人たち……そんな人たちとの出会いを、一瞬だって嘘にしたくないんだ。
 感情を消し、人との関わり合いを断絶すれば楽になるだろう。しかし同時に、人として大切なものも失ってしまう。彼はその失いがたいものに固執した。
 その強さを羨ましいとさえ、感じていた。
「結局、わらわには真似出来なかった」
 素直に自分の弱さを認めて、彼女は目を伏せる。
 あの強さがあれば何かが変わっただろうか、変えられただろうか。虚しさだけが残るこの心を持てあますことは無かっただろうか。答えなど、見付からないのに問いかけてばかり居る。
「星辰剣よ」
『なんだ』
 低いが耳に心地よい音が響き渡る。
「おんしは、もし人の形を得ていたとしたら、どうした?」
『奇異な事を聞く』
「気が向いただけじゃ。今夜は……月が明るい故に」
 ふっ、と零れた彼女の笑顔は本物で、つられて窓から見上げた月は確かに彼女の言う通り明るく輝いている。
『何も変わらぬ。同じように何処かの洞窟で眠っているだろう』
「面白味のない」
『私の勝手であろう』
「いかにも」
 小さく頷いて少女は細く白い指で落ちてきた銀の髪を掬い上げた。
 闇の紋章の化身として存在している星辰剣は、それ以上でもそれ以下にもならない。余分な感情を持たず、己を使う者にとっても最も効率的な戦い方を与えるだけ。それ以外に自身を使う必要などないのだ。
 自ら自由になる肉体を持たない不自由さであるが為に、彼の心は何処までも自由で強固でいられる。行きたい場所へ行きたいと思ったときに実行できる自由さを持つ人間とは根本的な部位で違う。
「いっそ考える術を持たぬ草木にでも生まれてくれば良かったものを」
『そう悩む事こそ、己が人間であることの証とは言えぬのか?』
 水面を揺らす波紋、投げ入れられた石の言葉に彼女は意外な様子で星辰剣を見返した。
『なんだ』
「いや……主らしからぬ言葉が聞こえたような気がしてな」
『似合わぬか』
「ああ、似合わぬ。道具であるうぬが人を語るなど」
『その人で在らざる者になりたいと願う汝が言えた口か?』
「いかにも」
 呟き、頷いた彼女の横顔からは感情が見えない。冴え冴えとした月明かりを受けて微妙な陰影の彩が浮き上がるのみ。そこからはなにも読みとれない。
「このまま、わらわが夜の闇に消えたとしても。誰ひとりとして哀しみ悼む者がいないのならば」
『…………』
「それを生きていると言えるのか?」
『このような戯論を交わすためにうぬは私を訪ねてきたのか?』
 会話は噛み合わない、いつしか互いの心が模索する道は離れた。
「戯れなど……」
『うぬの言葉は、「寂しい」としか聞こえぬ』
 驚いたように少女は目を見開いた。星辰剣が低く笑う。
『図星であろう?』
「……否定はせぬ」
 やや不本意そうに少女は答える。言われてみれば、確かにそうかもしれないという気持ちが消せない。心を持たぬものになりたいと願いながら、それを生きているとは言わないと否定する自分がいる。相反する心を抱えて、だからこそ彼女もまだ、ヒトでしかない。
「余計な事を……」
 少女は笑った、心から、本心で。
『年寄りの戯言だ』
 星辰剣も笑みを浮かべ少女を見返す。
 月明かりが眩しい。何処までも柔らかく澄んだ光がカーテンを揺らし室内を照らし出す。
 静かだった、遠く湖の波立つ音さえ聞こえてきそうな夜だった。だからどやどやと声を立てながら廊下を歩いてゆく一団が部屋の前を通り過ぎるのも簡単に予測が出来た。
「そろそろ暇するかの」
『結局何をしに来たのだ』
「決まっておろう? 月が明るかったからじゃ」
 月が明るい夜は心の中がわさわさして眠れない。だからだろう、自分を知るものを尋ねて昔話にでも花を咲かせたいと思ってしまった。自分らしくないと思いいつつも。
「あの男が戻ってきては五月蠅かろう。早々に立ち去らせて……」
 窓枠に置いた手に力を込め、身体を浮かせて足を外に向け直した彼女がカラカラと笑ったが、その声は途中で途切れた。
「ぷは~。飲んだのんだ」
 実に愉快そうに、野太い男の声が廊下と部屋を遮る扉のすぐ前で聞こえたからだ。ガチャガチャと鍵を外し、ノブを回して室内に足を踏み入れる。ぼさぼさに伸び放題の髪を掻き回し、あくびをしながら男はだが、部屋に入るなり肌に感じた冷たい空気に眉根を寄せた。
「なんだ?」
 そしてようやく、開けっ放しの窓を見る。その一瞬で、窓から消えた少女の姿も一緒に。
「!」
 反射的に、酔っぱらいのものではない動きで彼は窓にかけより太く逞しいその腕を伸ばしていた。
 すれ違うかと思った手はしっかりと目標物を捕獲していて、窓から身の丈の半分以上を乗り出した彼はホッと息を吐く。
「なんじゃ……」
「それはこっちの台詞だ!」
 不満げな顔と声で強く握られた手首の痛みを表現する少女に向かい、男は懸命に腕に力を込めて彼女を引き上げながら怒鳴った。
 怒鳴られた方の少女は目を丸くし、黙る。だが何故彼がこんなに怒るのかが理解できて居らずきょとんとしたまま、去るつもりでいたはずの部屋に引き戻されてしまう。
 脂汗を額に浮かべ、ゼーゼーと息を切らして肩を上下させている男に、窓枠に再び腰を下ろした少女は呆れ顔を向ける。
「飲み過ぎじゃ」
「うるせぇ」
 手の甲で汗を拭い、男が少女を睨み付ける。
「何のつもりだ」
「何が」
「だから、なんで飛び降りた!?」
「は?」
 一瞬何を言われたのか解らず、少女は素っ頓狂な声を上げる。それを聴いて、男も、彼女がそんなつもりなど毛頭なかったことに気づいた。
「いや、だから……この高さから落ちたら下手したら死ぬだろうが」
「お主……わらわを何だと思っておる」
「くそばばぁ」
「…………」
 迷いもせず即答され、ぴしっと米神にヒビが入った少女の鉄拳が容赦なく男の顔にめり込んだ。
『相変わらず正直な男だ』
 壁際の星辰剣がその様子を楽しそうに眺めていたが、こちらも持ち主に似たのか一言多かったため、少女の手近なところにあった男の持ち込んだ酒瓶を投げつけられ、ぼとっ、と床の上に転がって静かになった。
「ぁいちちち……」
 顔面を押さえ、男が床の上で胡座をかく。
「しょうがねぇだろ? 誰だって、部屋の窓からいきなり人が飛び落りたらびびるって」
 君は優しい、だから不安になる。
 何かを期待してしまいそうで、コワイ。
「この程度の高さ、わらわにはなんてことはないわ」
「けど、怪我するかもしれないだろう」
「今までそのようなヘマをした事はない」
「だからって、今度も上手く行くとは限らないだろ?」
 尚しつこく食い下がる男に、彼女は心底呆れた顔で目線を向ける。
「俺は、そんな所を見たくない」
 まっすぐ、迷わず告げる。だからこそ彼の言葉はいちいち琴線に触れてしまう。
 水面が揺れる、静かだった湖の表面が微かに波立つ。
「愚か者」
「なんでそう減らず口叩くかな、お前」
 苦笑して男は膝を叩いた。
「酔いは醒めたであろう?」
「おかげさまでな。楽しかった気分が一発でどっかに行っちまった」
「それは悪いことをした」
「そう思うのなら、一杯つき合って行け」
 立ち上がって星辰剣の脇に転がっていた酒瓶を手に取り、男が口元を緩めて酒を仰ぐ手振りを見せる。
「わらわに安い酒を勧めるとは良い度胸だな」
「俺の酒は安くないぜ?」
 なにせこいつはわざわざカナカンから取り寄せた特注品だからな、と豪快に笑って男は部屋の隅に忘れ去られたように置かれてあったテーブルにそれを置いた。
 少女もまた立ち上がり、月明かりだけを頼りに男の傍へと歩み寄る。
「ランプに火ぐらい入れたらどうだ」
 視線だけで壁に吊されたランプを示し男に抗議するが、棚からグラスを二つ持って戻ってきた男はなんだ、そんなことと呟いただけ。そしてカーテンの揺れる窓を顎でしゃくり、
「今夜は月が明るい。それで充分じゃないか」
「…………」
 一瞬、少女は呆けたように唖然となったが、すぐに表情を崩し楽しげに微笑んだ。
「確かに、その通りだ」
 玻璃のグラスに深紅色のワインが注がれる。
『やれやれ……』
 すっかり存在を忘れ去られた星辰剣が、床の上で横になったまま愚痴をこぼした。
『月が明るい夜は、煩くて適わんわ』
 グラスを重ね合う、硬質の音が響き渡る。