あの風に乗せて空へ

 早起きは得意だ。
 剣道部の朝練があるから、以前は毎日五時半には起きて七時には学校に向かっていた。 親にしつけの所為もあるが、基本的に早起きするのが好きだった所為でもある。
 良い目覚めを迎えられた日は一日中気分がいい。ピンと張りつめた朝の冷たい空気も、窓の外でさえずる小鳥の鳴き声も、新聞配達の自転車の音、プリズムのように輝く太陽の光。そういうものを眺めながらジョギングするのが日課になっていた。
「んん……」
 日差しの差し込まない窓のない部屋で眠るようになってから、目覚めの体内時計が狂ってきていることは由々しき事態であると、トウヤは思う。夜なかなか寝付けないのも、原因のひとつなのだろうが……。
 ベッドの中で夢うつつのまま寝返りを打ったトウヤは、しかしキィ……という木の軋む音を微かに耳にして眉根を寄せた。
 極力足音を立てないようにしているつもりだろうが、気配を完全に消すところまでは至っていない。建て付けの甘い床の上を進むだけでも、床板は小さく軋むというのに。
 ――誰だ……?
 早朝の侵入者はトウヤの眠る、ドアすぐ横に置かれたベッドの脇で止まった。
 何故か嫌な予感を憶える。
 壁側に向いている今の姿勢から、ドアノックもなしに入ってきた人物の立つ方に寝返りを打とうとした、その瞬間。
「起きろーーーー!!!」
 思い切り息を吸って、けたたましい声で叫ぶと同時になんと体ごと横になっているトウヤに向かってダイブしてきたのは。
「うわっ!」
 直前に目が完全に覚めて、でも避けるのには間に合わなかった。
 体にかけていた薄い生地のケットが空中に舞い、落ちてきたソルをトウヤは腹部で受け止める。息が詰まって、エビぞりになったトウヤは呻いた。
「お、重い……」
「あー、悪い悪い。大丈夫か?」
 トウヤから放れ、ベッド脇に戻ったソルがからからと笑う。少しも悪びれた素振りではない。
「でもお前だって悪いんだぜ? いつまで経っても起きてこないから」
「え?」
 押しつぶされた胸を押さえ、上半身を起こしたトウヤがびっくりした顔でソルを見る。すると彼はそれこそ意外だったのか、きょとんとする。
「今……何時?」
「もうとっくにみんな仕事に行ったけど?」
 聞くのも恐ろしい事を敢えて口に出し、即答されてトウヤはベッドの上に沈没した。
 ――不覚!
 今まで多少起きるのが遅れることはあった。しかしその程度はほんのわずかでしかなくて、皆で一斉の朝食には必ず間に合っていた。だが今日、ソルの口振りからしても、朝食タイムはすでに終わっている。
 無遅刻無欠席、皆勤賞で中学を卒業したトウヤにとって、朝寝坊は一生の汚点でもあった。
「大丈夫か? トウヤ」
 何をそんなに苦悶する必要があるのか、とソルは不思議そうだ。たかが寝坊したくらいで。
「ま、いいけど。早く来ないとリプレが片付けちゃうぜ?」
 よくよく耳を澄ませれば、微かに台所で洗い物をしている水音が聞こえる。すでに彼女が片付け体勢に入ってしまっていることは間違いないだろう。
「今行く……」
 まだじんじん痛む腹に力を込め、よろめきつつ立ち上がるとトウヤはソルについて部屋を出た。
 確かに、外は晴天。しかも太陽はかなり上の方まで登っていて、窓から空を見上げたトウヤを大きく落胆させた。

 台所に行くと、リプレは「珍しいわね」と笑って残しておいてくれた朝食をくれた。
「雨でも降るかもね」
 いつも誰よりも早く起きてくるトウヤだからこそ、彼が寝坊したことはフラットの全員が驚いた。だが、疲れているのだろうと皆がそれぞれ彼を気遣い、敢えて起こしに行かなかった所為でトウヤはますます起きるのが遅くなってしまった。
「そんな気遣いは不要なのにな」
 皿に盛られたサラダを突っつきながら呟き、トウヤは食堂を見回す。
 ガゼルはリプレの頼み事で出かけているとさっき聞いた。エドスやレイドも仕事に出ているし、リプレは台所で洗い物の続き、それが終われば洗濯に取りかかるはずだ。いないのは……子供達か。
「どこに行ったんだろう」
 もうじき昼とはいえ、まだ午前中だ。子供達だけでそう遠くへ行くとは思えないし、もし出かけているとしたら少しはリプレの話題に上るだろう。ソルも子供達に関しては何も言っていなかったし。
 そのソルも今はどこかに消えてしまって姿が見えないけれど。多分、自室に戻ったのかアジトのどこかで何かをやっているか、どちらかだろう。
 ひとりぼっちの食事はどことなく味気ない。昔は、鍵っ子だったから平気だったはずなのに。今じゃ大勢で一斉に食事をする生活に慣れてしまったからか、いつもと変わらないハズのリプレの食事も、あまり美味しいと感じられなかった。
 ――そうか……。
 食事が美味しいということは、もちろん食べ物の味も欠かせない要素だが、それ以上に共に言葉を交わしながら食べてくれる相手がいてこそ、初めて成り立つものなのだと、トウヤは今更実感する。
 ――やっぱりもう寝坊は出来ないな……。
 こんなつまらない食事をするくらいなら、多少無理をしてでも早起きしなければ。サラダを口に運びつつ、トウヤは心の中で誓った。
 右手に持っているフォークを置き、皿の右側に置いてあるコップを取る。中にはコーヒー(らしき飲物)が注がれている。甘いものは苦手だから、中に甘味料を入れることはない。昔からそれは癖だった。
 何度も胃に悪いぞ、と注意されたけれどこれだけは変えられない。舌の上に残る砂糖の感触が嫌いだった。
「どう? たまにはひとりで静かに食べるのも悪くないんじゃない?」
 台所から、エプロンで手を拭きつつリプレが出てきてテーブルにひとり座っているトウヤに言う。
「いや、もう二度と寝坊はしないよ」
「そう?」
「ああ」
 ひとりで食事するつまらなさは一度だけで十分だ、と苦笑しながら答えるとリプレは口元にてをやって笑い、洗濯物を干しているから、と庭に下りていった。
「食器、流し台のところに置いてくれたらいいよ。お昼の分と一緒に洗っちゃうから」
 赤いお下げ髪を揺らして、彼女は上機嫌に洗濯に取りかかる。小さい頃から慣れているのだろう、彼女の動きにはまったく無駄が感じられない。感心するほどに。
 たまには手伝ってあげようと思うのだが、替えって邪魔になることの方が多いのは目に見えて明らかなので、迷惑にならない程度に抑えておく必要があるが。
 ややぬるくなったコーヒー(あくまで、それらしき飲物ではあるが)を口に運び、ひとくちすする。苦みが口いっぱいに広がり、その苦みこそがトウヤの心を落ち着かせるのに一役買った。
「ふう」
 ようやく人心地付けた、と両手でカップを持ちながら息を吐いた彼の耳に、ふとけたたましい複数の足音が聞こえてきた。
「?」
 そう遠くはない。なんだか上から聞こえてきているような気もするが、すぐに音は平行面上――つまり一階部分から聞こえるようになった。しかもだんだん近づいてきている。
 なんとなく、嫌な予感がした。
 彼の座っている席は台所に向いている方で、背中側がガゼルの部屋や自分の部屋に繋がる廊下部分になっている。つまり、そちらから接近してきているものは振り返らない限り今のトウヤには見えない。
 でも振り返るのもちょっとばかり恐ろしい気分。
 テーブルが振動で揺れ、そこに肘をついていたトウヤの持つコーヒーカップの中身もゆらゆらと波立つ。足音は上気する息を加えて更に大きくなり、ついに。
「兄ちゃーーっん!」
 トウヤの手前で飛び上がったアルバが容赦なく彼に飛びかかり抱きついてきた。
「ぶっ!」
 持っていたコーヒーカップが上下に激しく揺れ動き、中身が前につんのめったトウヤの顔に降りかかる。前髪に雫が垂れ、苦い味が顔全体に広がった。着たばかりの服にも茶色のシミが点々と……。
 幸か不幸か、コーヒーは冷めていて熱くなかったのがせめてもの救い。
「あ……ごめん、兄ちゃん」
 後ろからだとトウヤがカップを持っていたことは見えない。張り付いた笑顔をヒクつかせているトウヤの顔を盗み見て、アルバはばつが悪そうに言って離れていった。
 食べかけのサラダも、見事にコーヒー味に染まっている。
「なにやって……トウヤ、どうしたんだそれ!?」
 大騒ぎを聞きつけたソルが食堂に顔を覗かせ、コーヒー色の顔になったトウヤを見て驚く。まだ前髪から滴るコーヒーさえ拭おうとしていないトウヤは答えることが出来ない。すこし、鼻に入った。
「……はい…………」
 おずおずと横から小さな手が差し出され、振り向くとラミが真白いタオルを持って立っていた。
「あ、ああ……ありがとう」
 素直にタオルを受け取り、顔を拭うと一度でその部分は真っ茶色になってしまった。これは洗濯が大変かもしれない。
「ごめん、兄ちゃん……」
 泣きそうな顔をしているのはアルバだ。
「怒ってないよ」
 両手と首筋と、服の表面と前髪とを順にタオルで拭きながらトウヤは笑っていった。
「それくらいの元気がないと。男の子だもんな」
 ただあの不意打ちは二度とやってもらいたくないけれど、と心の中で呟いてトウヤはアルバの頭を軽く撫でてやった。そして、彼の後ろにいるフィズがなにやら白いものを持っているのに気付く。
「どうした?」
 何か言いたげな顔をしている彼女に椅子ごと向きを改めて尋ねると、彼女ははっとなって持っているものを前に突きだした。
 それは白いカイトだった。俗に言う、タコ。
 一体どこから見付けてきたのか――と問いかけて、さっきの足音の発生源を思い出しトウヤはピンと来た。屋根裏部屋だ。
 確かにあそこはいろんなものが乱雑に押し込められていて、タコぐらい出てきても何ら不思議ではない空間になっている。そのタコは所々すすけて汚れていたが、骨もしっかりとしているし壊れていない。このままでも充分飛ばせそうだ。
「懐かしいな、タコか……」
 小学校の頃、正月に田舎でよくたこ揚げ大会をやった。あの頃はまだ電柱がなく、広々とした草原がどこまでも広がっていたのだが、その田舎も、今じゃマンションが建ち並ぶベッドタウンに変わってしまった。最近の子供達はたこ揚げもやったことがないらしい。
「なんなの、これ」
 そして御多分に漏れず、アルバ達もたこ揚げを知らないらしい。いや、ただ単に教えてくれる大人がいなかった所為だろう。リィンバウムのは電信柱なんてものはないから。
「これは、タコ……この形だとカイトって言った方が正しいのかな。要するに風に乗せて空に揚げるものなんだ。この糸を持って、風と逆方向に走る。もうひとりがカイトを支えて一緒に走って、タイミングを揃えて手を放してやる。糸は放しちゃ駄目だからな。放したらそのまま風に飛ばされてしまうから」
 何も描かれていない真っ白なカイト。糸は日本の凧糸とは少し違って細かったが、十分すぎる長さを持っている。
「へぇ……物知りなんだ」
 フィズが物珍しそうにカイトを見つめて呟く。トウヤは苦笑した。
「僕が住んでいた国にも、似たようなものがあったからね。いとことかが一斉に集まって、誰が一番高くまで揚げられるか、競争したよ」
 凧同士の場所が近すぎて糸が絡まり、くるくる回転しながら地上へ落下していった事もあるが、トウヤは大体いつも、一番か二番に収まっていた。そのかわり独楽回しは不得手だったけれど。
「やりたい!」
 突然アルバが大声を上げた。
「おいら、やってみたい!」
 トウヤの話を聞いて好奇心が刺激されたのだろう。トウヤを挟んで反対側にいたラミが、クマのぬいぐるみを抱きしめて肩をびくっと震わせた。
「……じゃあ、なるべく広くて風の吹いている場所――川原とかに行ってみたらどうだ?」
 何もなく広い場所は沢山あるが、子供達に荒野に行かせるわけにもいかないのでトウヤはアルク側の畔を勧めた。あそこなら町に近いし、釣り人もいるから安心だ。
「兄ちゃんは手伝ってくれないの……?」
 だが椅子から立ち上がらないトウヤに、途端に泣きそうな顔になってアルバが言う。
「ばーか。お兄ちゃんは、誰かさんが邪魔してくれたおかげで着替えなくちゃいけないんでしょう。それに、まだ朝ご飯の途中みたいだし?」
 フィズが間髪置かずにアルバに突っ込み、まさしくその通りだったトウヤは苦笑する。だが確かに、いきなりやったこともないたこ揚げをお手本もなしにやるのは無理があるかもしれない。
「じゃあ、俺が一緒に行ってやるよ」
 言ったのはソルだった。
 一斉に4人の視線を集めて、すっかり存在を忘れられていたソルは胸を張った。
「出来るのかい?」
「風に乗せて浮かせるだけだろ? 楽勝だって」
 召喚術を使うよりは簡単だろう、と笑ってソルはフィズからカイトを受け取った。まじまじとそれを見つめ、
「ふーん。以外と単純な構造してるんだな……」
 裏返し、また表を返して眺めて呟く。
「あんまりごちゃごちゃものをくっつけすぎると、かえって重くなって浮かないんだと思うよ」
 まだ体に残っているコーヒー臭さに顔をしかめ、トウヤは言う。そんなもんかな、とソルは気のない返事をして子供達を見下ろした。
「じゃあ、行くか」
「やったー!!」
 本当は自分がやりたいだけではないのだろうか、と本気ではしゃいでいるように見えるソルを眺め、トウヤは肘をついたまま笑った。

 
 手っ取り早く食事を終え、食器を流し場に置いたトウヤはまず自室に戻って今着ている服を脱ぎ新しいものに着替えた。だが髪に残るコーヒーの匂いや粘っこさはどうにもならず、井戸に行って水を汲み、それを頭からかぶるしかなかった。
「どうしたの?」
 洗濯をあらかた済ませたリプレに問われて、苦笑しながら事の顛末を教えると彼女は呆れた顔で笑っていた。
「火傷しなくて良かったね」
「まったくだよ」
 真新しいタオルで顔を拭き、頭を振って髪に残る水気を飛ばす。わしゃわしゃとタオルで頭を掻き回し、軽く水分を奪ってそれで終わりだ。後は自然に乾燥するのを待つ。まだ昼で太陽も出ているから、アルク川に行くまでに乾くだろう。
「出かけてくるよ」
 上着に袖を通しながら洗濯物を干しているリプレに言うと、彼女は行ってらっしゃいとだけ返してくれた。
「昼ご飯、ちょっと遅くなるかもしれないけど、いいかな?」
「んー、あんまり遅くならないでね」
 もうじきしたらガゼルが帰ってくるはずだから、とシーツを両手で広げて物干し竿に向かって背伸びをしている彼女の返事を待ち、トウヤは庭から出た。
 いい天気だ。真っ青な色は、西の空を見る限り無限に続いている。ところどころで浮かんでいる白い雲は風にながされ、のんびりと東へ進んでいるようだった。
「んー、気持ちがいい」
 道の真ん中で大きく伸びをして呟き、トウヤはアルク川へ向かう。だが町並みを抜けて川原へ出る道をいくら行っても、空にあのカイトが浮かんでいる気配はなかった。
「どうしたのかな?」
 あれだけ自信満々だったソルだったから、多分大丈夫だろうと思っていたのだが。やはり初心者には難しかったか?
 風はいい具合に吹いている。これなら多少下手でも少しは飛んでもおかしくないのに。
 並木を抜けて川原に下りると、すぐに子供達とソルの姿は見付かった。だがその光景を眺めてトウヤは失笑してしまう。
「それじゃ、駄目に決まってるよ」
 糸を持つソルと、凧を抱くようにしてもっているアルバがいつまでも一緒になって走っているのだ。それじゃあ、いくら頑張っても凧は揚がりっこない。
「お兄ちゃん……」
 ふたりから少し離れた場所に立って事の様子を見守っていたフィズとラミがまずトウヤに気付く。それから、ソルが気付いた。
 視線が合うと、ばつが悪そうに顔を背ける。まだ走り止んでいないアルバがいつの間にか立ち止まったソルを追い越して慌てて戻ってきた。
「あれ? 兄ちゃん」
 この凧壊れてるの? 全然揚がらないよ、と続けざまに質問してくるアルバに笑いかけ、トウヤは前に出て彼から凧を受け取った。そして糸の先を持つソルに近づく。
「貸してごらん」
 長く垂れ下がった糸を心棒にまき直し、持ちやすいように棒の片側に糸を寄せてトウヤはカイトの両端を持った。そしてそれを頭上高くに掲げる。
「これは、こう持つんだ。なるべく高く、風を大きく受け止められるようにね」
 アルバは胸の前で持っていたから駄目だったのだ、と言うと彼は頬を膨らませた。
「ソル」
「え?」
 名前を呼ばれ、振り返った瞬間何かを差し出されたからつい反射的に受け取ってしまった。ソルは目を見開き、胸に納まっているカイトを呆然と見つめる。
「それ持って、走ってくれないかな。僕がタイミングを言うから、その瞬間に手を放してくれたらいい」
 なるべく高くに掲げるんだぞ、と念押しして、トウヤはソルの了解の返事も待たず糸を伸ばして風上の方向へ走っていってしまった。
「え……ちょっと待て、トウヤ!」
「いいかい? いくよ!」
「だから待てって……うわっ」
 期待の眼差しを送ってくるアルバにも気付かず、突然のことに対応できなくて焦るソルを置き去りにトウヤはさっさと糸を引いて走り出した。前に引っ張られる形でつんのめったソルは、だがこのままここで足を踏ん張っていてはカイトが破れてしまうと気づき、不本意ながらトウヤに合わせて走り出した。
 最初は歩くように、やがて緩やかにスピードを上げて。
 風に逆らって走るソルの頭上には、風を受けて暴れるカイトがある。このまま自分ごと空にさらわれてしまうのではないか、と一瞬恐くなった。
「今だ、ソル。手を放して!」
 前方からトウヤの矢を射るような声が飛んできて、台詞の中身を理解する前に彼は手を放してしまった。
 トウヤはまだ走っている。ソルの手を飛び出したカイトは、風に乗ってぐんぐん上昇していく。
 子供達の間から歓声が聞こえた。
 トウヤの手の中から細い糸が心棒からものすごい勢いで解き放たれていく。それをある程度の長さでトウヤはストップさせ、糸を持ってバランスを取りながら空の中に浮かぶ白い小さなカイトを安定させた。
「凄いスゴイすごーっい!」
 興奮したアルバがぴょんぴょんとその場で飛び跳ね、大急ぎでトウヤの元に向かう。フィズもラミの手を引いて走り出し、にわかにトウヤの周囲は大騒ぎだ。
 それを、ソルは離れた場所で見ていた。
 見上げた先にあるカイトは、時々強く吹く突風にあおられて揺れる以外は安定している。白い点は青空の中のシミのようで、ちっぽけだった。
 地上で藻掻き足掻く自分たちを、あの小さなカイトは見下ろしている。ここよりも遙かに自由な空から。
「あんまりごちゃごちゃものをくっつけすぎると、かえって重くなって浮かない……まるで俺みたいだ」
 何も持たないからこそ、カイトは自由に空を飛ぶことが出来る。運命という鎖で縛られ、思い通りにならない自分にさえ戸惑いを隠せないというのに。
 なんて自由、なんて身勝手、なんてザマ……!
「ソル」
 悔しげに唇をかみしめた彼を、いつもと同じ優しい声でトウヤは呼びかける。
「ソル」
 カイトの糸は操り方をアルバに教え、彼に渡してきたらしい。今のトウヤは何も持ってはおらず、それが今のソルには自由の象徴のように見えた。
 しがらみのないもの、己の思うように生きられる者、奪うことを知らない無垢な瞳――
 苦しい。
 哀しい。
 羨ましい。
 妬ましい。
 憎い。
 いっそ彼も自分を憎んでくれたらいいのに。そうしたら、こんなにも苦しい思いをしなくても済むのに――!!
「ソル」
 気付かないのか、トウヤは返事をしないソルを訝しげに見つめる。わずかに視線を上向かせれば、そこにトウヤの黒い瞳があった。
 揺れることのない力強い光をその奥に秘めている。彼に見つめられたら、自分が今まで虚勢を張ってでも守ろうとしてきたものがあっけなく崩れてしまいそうで……ソルは苦手だった。まるで自分の心の内をすべて暴かれてしまいそうで。
 言いたくなってしまう。謝りたくなって、許しを請いたくなる。そしてきっと彼は赦すだろう、今まで隠してきたこと、これからも隠し続けること、……トウヤが何故この世界に呼ばれてしまったのか、その理由も、ソルの存在もすべて。
 彼は認め、赦し、受け止めてしまうのだろう。
 その優しさがいっそうソルを苦しめることにも気付かないで。
 トウヤの言葉は優しい棘になってソルの心を傷つけている。
 ふいに泣きたくなった。
 遠くで子供達のはしゃぐ声が聞こえる。そちらに一度視線を戻していたトウヤに気付かれないように目尻を乱暴に拭い、ソルは深く息を吐いた。それに気付き、トウヤはすぐに彼を振り向き見た。
「今度、ソルにも作ってあげるよ」
「いらない」
 ずっと黙ってカイトと空を見上げていたソルだったから、トウヤは誤解したらしい。
「大丈夫、凄く簡単に作れるんだ。小学校の時に作ったことあるし」
「だから、別に欲しいとか思ってないって……」
 人の言うことを聞いてくれ、と訴えかけるソルだったが。トウヤの瞳にまっすぐ見つめられて息を呑む。
「本当に?」
 くすり、と。含みのある笑顔で問われてソルは言葉に詰まる。
「いいんだってば!」
 苦し紛れに叫んでソルはトウヤの背中を思い切り押した。
 心底面白がっているのが分かるトウヤの笑い声に赤くなりながら、ソルはもう一度空を仰ぐ。
 白いカイトが揺れている。トウヤが糸を支えていたときよりもいくらかぶれが大きくなってきている気がしたが、まだ当分、地上に落ちてくる様子はなかった。
「ソル?」
「……ありがとう」
 信じていいのか?
 そう言葉の裏に告げて。
 もう空のカイトを憎いとは思わなかった。