doze

 あふ……と欠伸をしながら、大きく腕を頭上に伸ばしてみる。その仕草に、横でドラムスティックをお手玉がわりにしていたアッシュが首を捻った。
「寝不足ッスか?」
 かつっ、と彼の手元から離れたスティックが床に落ちて跳ね、少し遠い場所へ転がって行く。それを、座っていたソファから少し腰を浮かせることで拾い上げて傷が入っていないことを確かめると、アッシュは返事をしないスマイルを振り返る。
 控え室にふたつ据え付けられているソファのうち、片方はふたり掛け、もうひとつはひとり掛け用になっている。今、彼はふたり用のソファをひとりで占領していた。
 Deuilに与えられた控え室はかなり広い、作りも丁寧で派手すぎないが豪奢だ。三人で使用するには勿体ない大部屋だったのだが、この配慮はどう考えても……置かれている家具類を見てもどうやら、ユーリの好みらしい。
 必要最低限のものがあれば充分のふたりと違って、どうもユーリだけが、生まれ育った環境の所為で通常よりも金のかかった道を自然と選んでいる。自分たちはその恩恵を少なからず受けているわけだから、批判したりするような莫迦な真似はしないけれど。
「スマイル?」
 いくら待っても返事をしないスマイルに、反対側へ首を捻ってアッシュは再びソファへと背を預ける。柔らかなクッションが心地よく身体を沈め、受け止めてくれた。
 視線を向ける。気紛れなこの透明人間は、眠そうに欠伸を噛み殺しながら瞼を擦っていた。半値状態らしく、アッシュの声もこんなに近くにいるのに届いていないような感じだ。
「寝不足?」
 さっきと同じ言葉を今度は少し声を大きくして尋ねてみる。それでようやく、彼はアッシュの問いかけに気付いたらしく何処かトロンとした目を向けてきた。
「ん~?」
 なに? と問いかけてくる目をされて、アッシュは困ったように頬を掻く。気付いてはもらえたものの、問いかけた内容までは聞き取れて居なかったようだ。
「かなり眠そうッスから。今ならまだ時間あるみたいだし、横になってたらどうッスか?」
 頬杖をついて座っているスマイルに、ふたり掛けのソファを指さしながらアッシュは笑う。時計を見上げて時間を確認し、リハーサルの時間から逆算してまだ一時間ほど余裕があることを彼に知らせてやった。
 ユーリはスタッフとの打ち合わせでさっきから出ていてここには居ない。もし眠るのに自分が邪魔なのであれば出ていくから、と言うアッシュの言葉を随分と長い時間をかけて理解したスマイルは、もう一度欠伸をして頷いた。
「そーするよ……」
 いかにも眠そうな声で、一言。瞼は既に落ちかけていて、目を開けているのも大変そうだ。このまま放っておいてもそのうち眠ってしまっていただろうが、座ったままの姿勢で眠りにはいると下手をすれば床に落下、ともなりかねない。
 そんな笑えないシチュエーションを本番前にさせるわけにもいかないから、アッシュは「そうそう」と何度も頷き返してスマイルが横になりやすいように手を貸してやった。
 最近また曲作りに熱中し始めているらしいスマイルは、どうやら昨夜もあまり眠ることなく作業に没頭していた模様だ。そんなことはにべにも出さない彼だけれど、これだけ眠そうにしていたら誰だって推測できる。よりにもよってコンサート前に、と思うのだが気紛れな性格をしているスマイルは、何時波に乗れるかどうかも気紛れなのだ。
 肘置きを枕代わりにしてソファいっぱいに横に寝転がったスマイルは、程なく寝息を静かに立て始めた。
 やれやれと、そのあまりの寝付きの良さに肩を竦めたアッシュは何か上掛けに出来るものが無いかと周囲を見回す。
 しかし生憎とこの控え室は仮眠室ではないので、上掛けなど置いてあるはずがない。譬えうたた寝であっても、身体を冷やすような真似をすべきではないからとアッシュはしばらく悩んだ後、スタッフから借りてこようと結論を下す。
 それにあまり人が寝ている横でドタバタとするのも悪い気がする。
 考えを決めたら即行動に移るに限る。アッシュはまるで起きる気配もなく寝入っているスマイルをもう一度見下ろして微笑むと、部屋の照明を消しなるべく静かに扉を開けて部屋を出ていった。

 アッシュが出ていって控え室にスマイルひとりが残されてから程なく、ノックも無しにその控え室の扉が開かれた。
「…………?」
 しかしドアノブに片手を置いたまま室内に入ろうとした存在は、窓から僅かに光が射し込んでいるものの天井のライトが点灯していないこの状況に首を捻った。おまけに、此処で待っているように指示して置いたはずのメンバーの姿が見えないことに、形の良い眉を寄せて彼は顔を顰める。
「アッシュ。スマイル?」
 順にメンバーの名前を呼ぶが返事はない。もう一度薄暗い室内を見回してそれから、彼は壁のスイッチを押して部屋を明るくした。
 やはり誰も居ない。首を捻ったまま彼は後ろ手に扉を閉めると足を踏み出す。飲み物や食べ物が乱雑に積まれたテーブルに持っていたファイルを置き、そこでようやく彼はソファの上の存在に気付いた。
「スマイル……?」
 銀の髪を揺らして、彼はソファの上で眠っている存在の名を呟く。
 短時間内での空間の明暗の変化にも全く目覚める様子がない。寝息に少しも乱れたところはなく、それが彼の眠りの深さを窺わせた。
 そう言えば朝からずっと眠そうな顔をしていたな、と傍に寄りながら彼は今朝のスマイルを思い出しながらそっと彼を上から伺い見る。こんなに人の気配が近くに迫っているのに、普段からは想像もつかない無防備さをさらけ出している事が珍しくてつい、じっと彼の寝顔を見つめてしまう。
 よくよく考えてみれば、こんな風にスマイルの眠っている姿を見るのは久しぶり……いや、もしかしたら初めてかもしれない。
 腕を伸ばし、角張っている癖の強いスマイルの髪に触れる。思いの外弾力があって、そのくせ指先から逃げるように梳けていく。
 立ったままでは触りにくいので、身体は自然と膝を曲げてソファの前に膝立ちに座り込んでいた。布ずれの音が何も他に響くものがない室内にいつも以上に目立ってしまい、どきりとした彼だったが矢張りスマイルは目を覚ますこと無く眠ったままだ。
 こんなに疲れるまで、一体何をしていたのだろう……。
 飽きもせずスマイルの髪を弄りながら彼は考える。どうせ下らないことだろう、と思いつつも朝集合したとき異様にハイテンションだった事を思うと、作曲でもしていたのだろうか。
「ん~……」
 狭いソファの上で身を小さくし、寝返りを打とうとしたらしく身体を揺らしたスマイルだったが、背もたれに半分身体が沈んでいる所為でそれは叶わなかった。
 声に驚いた彼ははっとなって慌てて手を引っ込め、何故か反射的にスマイルに触れていた手を背中に隠してしまう。もし此処で彼が目覚めても自分は何もしていなかった、と言い訳を懸命に考えながら視線を天井に逸らす。
 だがスマイルは、また直ぐに静かになってより一層顔を肘置きの柔らかいクッションに沈めただけに終わった。
 はー、とホッとした息を吐き出した彼は緊張していたものが一気に抜けたらしい。床の上に尻餅を付いてしまう。
 衣服が汚れるのも気にせず、そのまま床の上で膝を抱き寄せて座ることに決めた彼は、直ぐそこに自分の指定席のようなひとり掛けのソファが空いているのに移動しようとせず立てた膝の上に顔を載せた。
 今度は見上げる形でスマイルの寝顔をソファの影から見つめる。
 起きていれば悪戯好きで、何かを企んでは下らない事ばかりしているくせに眠っているときだけはこんなにも静かなのかと知る。穏やかで変化の少ない寝顔は普段のスマイルとかけ離れていて新鮮であると同時に、自分の知らない人のようにも見えてしまう。
 閉ざされた瞼の奧にある瞳は、彼を映していない。それどころかスマイルは、こんなにも近くにいる彼の事に気付いていない。
 何故だろう、少し悔しくて、苛立つ。
 いつもと逆だ、しばらくしてからその事実に気付いて愕然となる。
 そう、普段なら見ているのはスマイルであって見られているのは自分だった。ところが今は立場が逆になっている。だから落ち着かない、変な気分になったのだ。
 丹朱の瞳が見えない。自分をいつも見つめている瞳が見えない。
「スマイル」
 起きろ、と願う。いつものように不埒な笑みを浮かべながら自分を見ていろ。こんな風に待たされるのは、本意ではない。こんなのは自分たちの関係ではない。
 だから、立ち上がって服の埃を払いもせず彼は両腕を伸ばしてスマイルを真上から見下ろして、揺さぶる。
「スマイル」
 心が落ち着かない。
 見つめるのは自分の役目ではない。けれどそれ以上に不安になるのは。
 このまま、目覚めなかったらという莫迦らしくも見逃すことの出来ない漠然とした、取り残される恐怖。
「私が呼んでいるのだ、今すぐに目を覚ませ!」
 リハーサルの開始予定時間が迫っている、けれどそんなことは言い訳でしかない。
「んん~~~」
 不機嫌そうに、折角の眠りを妨げられてスマイルが眉を寄せた。重そうに持ち上げられた腕が瞼を擦り、隠しきれない欠伸を零して彼はぼんやりとした目線を彼に向けた。
「あれぇ、ユーリだ」
 寝ぼけているのか、声のトーンが普段よりも少し高い。何が可笑しいのかケラケラと笑いながら人差し指で目の前に居るユーリを指さしている。
「なにしてるの?」
 状況を全く把握していない台詞、尤も今目を覚ましたばかりではそれも無理無いことだろうが。
 そうは考えないのが、ユーリという人物。
 あまりにも緊張感の足りない、今まで自分がシリアスにしていたのがとてつもなく間抜けに思えてきて怒りに震え、別にスマイルが悪いわけではないのに握りしめた拳を振り上げてしまう。
 ばこっ、と小気味のいい音が控え室に響いて。
「毛布借りて来たっスよ~」
 片手に薄紅色のケットを抱えたアッシュが、がちゃっと扉を開けて中に入ってきたのはその直後。
「…………あれ? スマイル、起きちゃったんスか」
 扉を開けた体勢のまま一瞬停止し、ソファを前に拳を戦慄かせているユーリと見てそれと分かるたんこぶを頭の上に作っているスマイルとを交互に見て、なんとも長閑な声でアッシュは言う。
「一生眠っていろ」
 ねぼすけだったのは自分の方なのに、そんな事は棚に上げてユーリはもう一発スマイルのたんこぶに拳を入れると踵を返して部屋を出て行ってしまう。
 扉を抜けてユーリに道を譲ったアッシュは、不要になってしまったケットを持てあましながら廊下を去っていくユーリの背中、頭を押さえて痛そうにしているスマイルの順に見て小首を傾げた。
「どうしたんスか?」
 けれど、目を覚ましたらいきなり理由も告げられず殴られただけなので、スマイルにだってユーリが何を怒っていたのかさっぱり意味不明だ。
 御陰で眠気はすっかり吹っ飛んでいったけれど……。
「今度は氷が必要ッスね」
 ケットをひとり掛けソファに置いてアッシュが苦笑する。
「なんだったんだろー……」
 最後にもう一度欠伸をして、スマイルは開けっ放しの扉をしばらく眺めていた。