自分であるために

 なに、を。
 期待していたのだろうか。
 己の手の平をただじっと見つめ、彼は考える。
 この手が汚したのではない、だが消すことの出来ない罪深き血の購いを求めていたのだと言うのならば、それは愚の骨頂でしかない。されど自分と同じような境遇にあり、その犯した罪に苦しめられている彼を見て、自分だけではないと安堵したかったのかと問われれば、首を振っての否定は出来ないのだ。
 そう簡単に清算できる事ではないことくらい、分かっている。だが自分ひとりだけが背負うにはあまりにも重すぎる、過去から現在に至るまでの一族の運命を思えば、もういい加減自由にしてくれても良いのではと思ってしまうことも事実だ。
 大地にひれ伏して、みっともなく頭を地面に擦りつけて謝罪の言葉を百万遍唱えれば許してやろう、そう言われたらきっと自分は誇りさえもかなぐり捨ててそうするだろう。
 その程度で許されるのであれば、軽いものだ。
 張りぼてのようなプライドなど、派閥の飼い犬として扱われる身である時点でとうに棄てている、今更拾いに行こうとも思わない。
 なのに、いざこの街に来て期待している自分が居る。
 彼は、どうして。己が犯した罪の重さに耐えられたのだろう。それでも生きていくことを選んだのだろう。
 その答えを、聞きたかった。
 波止場を降り、街中を歩く。辺境の町だけあってゼラムやファナンに比べると確実に見劣りするものの、こぢんまりと肩を寄せ合っている町並みはどことなく安心感を与えてくれる。
 目に見える範囲で人々が生活している、そんな感じだ。ゼラムは広すぎて、何処に何があるのかさっぱり分からない事も多い。地図なくしては、街中を闊歩することさえ慣れないと難しい。
 そして地図を持たさないと確実に迷子になる存在を最近になって、昔から知っている人物に加え、彼はもうひとり知ることになった。
 二重契約……本来あり得ないはずのギャミングによってここサイジェントからゼラムへ招かれてしまった不幸な少女が、それである。そして何を隠そう、昔から迷子になる常連であるのはその彼女を呼びだした張本人だったりするから、始末に負えない。
 どちらか片方でも方向感覚に鋭ければ問題ないのに、その両方共が方向音痴だったりするから彼らだけで買い物に行かせるにも不安が常に付きまとう。彼らが揃って帰宅するまで気が休まる事はなく、仲間内からは心配しすぎだと笑われもした。
 しかしあの緊張感のまるで感じられないふたり組は、ちょっとでも興味をひかれたものがあったら脇道に逸れてしまって、元の道に戻れなくなってしまうから困るのだ。
「それじゃ早速ご案内……」
 長閑な声がほわわんと響いて、思考を中断させられた彼ははっと顔を上げた。
 今、誰かが自分を見ていたような気がしたのだ。
「おいおい、モナティ。そっちは逆方向だぜ?」
 ウサギの耳を持った少女が意気揚々と北に向かって歩き出し、この街に不慣れな仲間達がそれに従おうとした時だった。唐突に、彼らの背後から声がかけられる。
 振り返るとまだ若い、自分たちとそう年の変わらない小柄な青年が片手を挙げて笑っていた。その傍らには白いマントを羽織り、人目で召喚師だと知れる風貌のやはり年若の、手を振っている彼よりは若干背丈のある青年が立って控えめな苦笑を浮かべている。
「にゅ……この声、は……」
 足を止め、振り返ったモナティが口をぽかんと開けて青年を凝視した。そして、見る間にその大きなふたつの瞳に涙を溢れさせた。
「おかえり、モナティ。心配したぜ?」
「マスター……」
 しばらく唖然とした顔で立ちつくしていた彼女も、ものの数秒も経たない間に我に返る。そして往来のただ中で、彼女は大声で叫び彼の許へと駆け出した。数歩手前で、ジャンプ。勢いをつけて飛びついた彼女をいとも容易く受け止めた青年は、よしよしと子供をあやすように彼女の頭を何度か撫でた。
 一方、取り残された方の面々は茫然である。
 確かに、モナティのマスターであり誓約者たる人物は青年だと教えられていた。何処にでも居そうな普通の青年だと。だが実際目の当たりにしてしまうと、やはり想像していたものとのギャップに愕然としてしまう。
 なんというか……酷いようだが、言ってしまうと威厳が感じられない。四界のエルゴに認められたリンカーとしての、もっと神々しい近寄りがたい何かがあるものと、心の何処かで期待していたのだ。それこそ、彼がいれば絶対に大丈夫だと信じさせてくれる何かがあるものだと。
 けれど実物を一目見たとき、それは自分たちの淡い幻想でしかなかったのだと改めて思い知らされる。
 どちらかと言えば、彼は出来の悪い弟弟子であったマグナ以上に召喚師っぽくない。腰に帯びている剣と日に焼けた健康そうな風貌からして、冒険者まがいの剣士に間違えられそうだ。
 そう、むしろエルゴの王は彼ですよ、と隣に立っている青年を紹介された方がまだ幾らか納得がいっただろうに。
 ちらりと横目で呆れ顔をしている青年を見ると、彼もこちらの視線に気付いたのか振り返る。向こうは少しだけ怪訝な表情をしてから、微かに微笑んだ。
「さ、行こう。みんな孤児院で待ってる」
 泣きやんだモナティを解放して、エルゴの王、ハヤトは笑った。詳しい話は、其処に着いて身を落ちつかせてからだと。
 そう長くはなかったものの、慣れない船旅で皆疲れ切っている。体を休め、心落ち着けさせるにはこんな繁華街の真ん中では無理と言うもの。
 リプレがお茶を用意してくれているはずだから、と彼は楽しそうに笑って言う。それを聞いてモナティがはしゃぎ回る。一歩遅れて歩く召喚師の青年が穏やかな表情でそれを見守っている。
「なんか……親子って感じ、しない?」
 この場合、子役は定まっているもののどっちがどっちの役目をするのかは考えないことにして、とりあえず思ったままの感想を述べたモーリンにマグナ達は苦笑で答えるしかなかった。
 その中で、ネスティひとりだけが沈痛な面もちで皆を眺めている。移動を開始した一団に少しだけ遅れて、彼は町の景色もロクに眺めようとせずただ歩いている。
「……ネス、具合でも悪いのか?」
 陸酔いしたとか? と今までずっと足場が揺れ続ける船上にいた事を揶揄し、問いかけてきたマグナにも「なんでもない」と首を振って会話を拒絶する。
 リィンバウムを人知れず危機から救ったエルゴの王と、それを補佐し支え続けた護界召喚師。その話は聞いている、ならばあの青年こそが無色の派閥に属しながらも誓約者を守る為の力を得た者なのか。
 罪深き業を背負いながらも、それでもなお、生き続ける事に固執した浅ましき魂の持ち主なのか。
 自分のことなのか、それとも目の前を黙って行く青年のことを差しているのか、それすらも分からない。
「…………」
 大通りを逸れて、雑多に色々なものが混じり合ったあまり治安も宜しく無さそうな一角へ足を踏み入れる。ぞろぞろと連れ立って歩いている彼らを物珍しそうに町の住人は見ているが、先頭に立っているのが彼だと知ると、納得顔で何故か立ち去っていく。あるいは、一団の中に不釣り合いなガタイの良い男が混じっている事に畏れおののいて逃げていくか、のどちらかだった。
 聞けば、その彼はミニスの叔父に当たりこの街の警備隊長を務める人物だとかで。町の住人に畏れられるのも無理はないのだと、教えてくれた小柄な少年は笑った。
 昔は対立してたんだけど、最後の戦いでは協力してくれたんだ。付け足されたように一番肝心なことを口にして、彼は傍らを行く機械兵士に「ね?」と同意を求める。求められた方も頷いて返し、前を行く青年達を見やる。
 年若い彼らは既にうち解け始めていて、ハヤトはマグナに町の中を色々と紹介しているようだった。初めての町に興奮気味のマグナは、そのいちいちに感心したように声を上げ、聖王都育ちのくせに田舎者丸出しで歩いている。
 ハヤトもそれが分かっているのか、遠くの方を指さしたり今度は近くのものを指し示したりと、まるでからかっているとしか思えない動作で説明をするものだから、いい加減やめにしないかと隣の青年――キールに咎められてしまった。
 小さく舌を出し苦笑いを浮かべるハヤトと、肩を竦めてやれやれといった風情で呆れかえるキール。いつもの事なのか、その仕草はやたらと堂に入っていた。
「キールさん、しばらく会わない間に随分と雰囲気が柔らかくなられたようですね」
 カイナが、そんな彼らを細めた目で見つめ微笑む。エスガルドも同意の言葉を口に出し、エルジンが補うように「ハヤトお兄さんの御陰だよ」と笑う。
「彼が……無色の派閥が行おうとした魔王召喚の生け贄だった事は、もうお話ししましたね」
 彼らの会話の中にふとした違和感をネスティが受けたことを、勘の鋭いカイナが察したのだろう、唐突に彼女がそんな話を彼に振った。それも小声で。
「え、ええ……」
 曖昧に頷くと、彼女はもう一度前方を行く青年達を見つめる。
 今あんな風にしているのを見ると信じられないのですが、と前置きした上で、彼女は。
「ハヤトさんはその儀式が失敗して、その時にこの世界にやって来てしまったそうです。最初、キールさんは彼を……魔王がよりしろにした存在だと疑っていたそうです」
 使われたサプレスのエルゴ、失敗した儀式、現れなかった魔王、その替わりに現れた不可思議な格好をした青年。この四つの事柄をシャッフルして考えれば、ネスティだってまずそれを疑う。
 そしてキールは、彼が魔王であるか否かを調べるために彼に近付いた。真実をハヤトに語ることなく隠し、彼を騙していた。嘘をついて、都合の悪いことは秘密にして、けれどキールはその事をずっと悩んでいた。
「罪を認める事はとても勇気の必要なことだと思います。勿論、許すことも」
 キールはハヤトに総てをうち明け、ハヤトはそれを許した。ふたりの間には様々な確執があったし、キールの裏切りを非難する声は仲間内でも上がっていた。だが、一番の被害者であるハヤトが彼を許した、その事実がキールを苦しみから解放したのだ。
 総てを語ってくれたキールの勇気を讃え、話してくれた事へ感謝さえして。ハヤトは、少しも彼を恨んだりしていなかった。むしろお互いが隠しあっていた事をさらけ出したことで、よりふたりの繋がりが強固になったと言えるだろう。
 誓約者と、護界召喚師としてだけではない。背を預けられる信頼に足る仲間としての、繋がりを。
「マグナさんはネスティさん、貴方に恨み事を言ったりしましたか?」
 ふっと微笑んで、カイナはそんな事を最後に口にした。
 ハッとなり、ネスティは顔を上げて彼女を見る。カイナは人の良さそうな笑顔を浮かべているばかりでそれ以上のことを語る気はないらしい。エルジンも、エスガルドも同様で。
 ようやく、彼女たちが何故一年前のハヤトとキールの話題を振ったのかを理解して、ネスティはしてやられた気分で頭を掻きむしった。
 そうだ、マグナは彼が真実を隠していたことを一度も非難したりしなかった。
 ショックから立ち直った彼は、いつもと変わらない自分を前面に押し出して周りを安心させようとしている。みんなを、そしてなによりも……隠していた真実を伝えなければならないという重責を背負わされたネスティを気遣って。
 それなのにネスティはひとり、悶々と過去に縛られた己に囚われて自分で身動きを取れないようにしていた。がんじがらめになっているはずの罪という鎖は、実はもうとっくに、断ち切られている事にも気づけずに。
 ライルの一族、そしてクレスメント家が犯した罪の重さは計り知れない。だが、目の前で笑っているあの青年に対する罪は少なくとも、もう清算できているのではないのか。
「貴方はもう充分苦しみました。そろそろ、ご自分を解放してさしあげるべきではありませんか?」
 優しい声でカイナが告げる。
「しかし……」
 それでも、ネスティは頷くことが出来ない。自信がない、本当に彼が心の底からネスティの事を許してくれているのかが。ずっとだまし続けていた罪がそう簡単に消えてなくなるのかが。
「罪は、己の心の中に罪として認識し続ける限り……消える事はありません」
 それまで響くことのなかった、落ちついた調子の低い声が俯こうとしたネスティに届いた。顔を上げると、いつの間にか移動してきていたらしいキールが、ハヤトに向けるのと同じ笑顔を讃えて其処に立っていた。
 いや、正しくは歩いていた。
「こんにちは」
「え、あ……はぁ」
 随分と気さくに話しかけてくる人だと、聞いていたのとはまたイメージが違っていてネスティは戸惑いを隠せない。その様子に、キールは口元に手をやって小さく笑った。だが目は笑っていない、真剣な色が其処にある。
「ですから、貴方がご自分でご自身を許さない限り……貴方は永遠に、罪という棘から逃れる事は出来ませんよ」
「では君は、自分を許せたと……」
「いいえ」
 自分で言ったことを呆気なく、簡単に否定して見せたキールにネスティは二の句が続かず唖然となった。ぽかんと口を開けている滅多に見ることの出来ないだろう彼の間抜け顔には、カイナまでもが口元を押さえて笑いを堪えている。
 キールが、意地悪く目を細めた。
「僕の罪は、ハヤトが許してくれました。だから、僕はもう良いんです。この先何があっても、彼のために逃げる事はしないと決めましたから」
 手を握っていてくれると、約束した。罪から逃げるのではなく立ち向かう勇気を、彼にもらった、だから。
「犯した罪も含めて全部が、僕である証だと思うようにしたんです」
 今こうしている自分も、過去贄となるためだけに育てられていた時期も、ハヤトを魔王だと疑い彼を裏切る己の行為に苦悩していた頃の自分も。全部ひっくるめて、自分なのだから。
 罪を否定することは出来ない、許すことも、また……否定することに繋がる。
 だから認める、真正面から受け止めて、ありのままを受け入れる。大丈夫、自分にはこんなにも後ろから支えてくれる人たちが居る。
「貴方にも、居るでしょう?」
 だから出来るはずだ、絶対に。
 もうすぐフラットのアジトである孤児院へ到着する。大分離れてしまった先頭の若者が大きな声を上げて手を振って、早く来いと騒いでいる。その中にごく自然に紛れ込んでいるマグナを見つけて、キールは微笑んだ。
「呼んでいますよ、貴方を」
「それは君も同じじゃないか」
 なにも手を振っているのはマグナだけではない、ハヤトもまた両手を頭上に掲げながら大声でキールの名前を連呼している。
「そうですね……」
 聞こえているよ、と返事をして彼はネスティに一礼し、ハヤトの方へ小走りに駆けていった。すぐにハヤトが寄ってきて、何を話していたのかと色々彼に尋ねはじめる。
 横目でその光景を見ているうちにネスティもいつの間にかマグナの所まで進んでいて、遅い、と小言を言われた。
「君が早すぎるだけだ。はしゃいで……子供みたいに」
「良いだろ、初めての町って面白いんだから」
「そう言って、ファナンで迷子になったのは誰だった?」
「うっ……」
 身も蓋もないことを指摘され、マグナは頭を引っ込めて口ごもった。反論できなくて、恨めしそうにネスティを見上げている。
 その姿に、ネスティは溜息をついた。
「君は……僕を許し認めているのか? 本当に」
 単に面倒だから何も考えていないだけではないのか。あまりの脳天気さに頭が痛くなる思いで呟いたネスティに、話の流れを知らないマグナは無邪気なままに首を傾げるだけだった。
「まぁ、いい……」
 前髪を掻き上げ、眼鏡の奧にある瞳を細めて彼は隣を自分と同じペースで歩く弟弟子を見据えた。
「君が、君で居てくれるので在れば……」
 それだけで充分自分は救われているのだと、今心の底からそう思った。