昔話を、しようか
その日はたまたま、夜から雨が降り始めて。夕食を一緒にと誘われて招かれたマクドール家の面々は、食事そのものを終わらせたテッドをなんとか引き留めようと必死になっていた。
「折角ですから、泊まって行ってください」
頬に十字の傷を持つくせに、その傷もまったく強面にせず穏やかな微笑みを隠さない金髪の青年、グレミオがエプロンを畳みながら言う。向こうではまだテーブルにかじり付いてパーンがシチューに食らいついていた。彼だけが、この夕食の席に遅れて帰ってきた為だ。
「そうですよ、テッド君。坊ちゃんも喜びます」
食器を片付けながらクレオもグレミオに賛同する。
“坊ちゃんが喜ぶ”、その台詞をこの屋敷に暮らす人間は最後の切り札的にテッドに使用してくる。にっこりと、微笑みながら。
俺はアイツの玩具か? そう心の中で悪態をつきつつも、この雨の中ひとり帰るのも考えるだけで気が重く億劫になってしまうのも事実で、曇っている硝子越しに窓の外を眺めた彼は盛大な溜息をついた。
「仕方ねーなー」
その言葉が発せられると同時に、テッドは背中を向けていて直接見ていないものの、グレミオとクレオがにんまりと笑ったのが解った。
正直、ここの人間は苦手だった。行き場を失い戦場跡を彷徨っていた自分を戦災孤児としてグレックミンスターまで連れてきてくれた上、家や生活の世話までしてくれている。その事には多いに感謝しているが、だが、あまりにもサービスが良すぎて却って居心地が悪いのだ。
最初は、この広すぎる屋敷の一室を与えられる予定だった。しかし、右手に刻まれた悪魔が共にある限りそれは己に許すべき事ではない。なるべく人と関わらず、関心を抱かれることなく。静かに、ひっそりと、時間が過ぎていくのを息を殺して待つだけが今までの人生だった。これからもその生き方を変えるつもりは無いし、それは出来ない。
世界に散る27の真の紋章がひとつ、呪いの紋章ソウルイーターがこの身に宿っている限り、いつか必ず災いは招き寄せられてしまう。その時、被害を受ける人間はなるべく少ない方が良い。彼らは何も知らずただ巻き込まれていくだけなのだ、何の罪過もないのに。
その現実はテッドを苦しめる、悲しませる。魂を締め付けて傷を負わせる。だから彼は自分から、人との関わりを極端なまでに避けてきたのに。
マクドール家の人々はそのテッドの努力を呆気なくうち砕いてくれる。
「じゃああとで、坊ちゃんの部屋にテッド君の着替え、持っていきますね?」
おいおい、既にラスの部屋に泊まることまで決定かよ……グレミオの朗らかな一声を聞いてテッドは呆れる。しかも、どうやらこの家には常に何時自分が来ても困らないように寝間着まで用意されているらしい。まさしく、いたせりつくせり。
だからか、不安になる。与えられるばかりのこの生活に。
見返りは何か、そのうちとんでもなく大きなものを求められるのではないか、代価を払わされるのではないか。彼らはそんなあざとい事をしない人種だと解っていても、何処かで疑っている自分が居る。そうやって生きてきたのだから、簡単に人を信用できなくなっていた。
だって、ずっとひとりぼっちで三百年……その間、何度も裏切られてきた。人の死を経験してきた、多くを巻き込んだ、人も殺した、生きるために。
気が付けば焼け野原に佇んでいたこともある。優しくしてくれた人が目の前で殺されるのも観た、その魂が右手に吸い込まれていく経験は数え切れないほど繰り返した。
いい人達だから、距離を置きたいのに。
「ラス、二階?」
ぽりぽりと頭を掻いてクレオに尋ねると、彼女は微笑んだまま頷いた。そしてパーンにシチューのおかわりを注いでやる。
彼女も、パーンも戦士だ。マクドール家の当主テオは帝国の六将がひとり。戦争が起きれば彼らも戦場へ駆けつけなければならない。戦争にまで至らなくとも、将軍たるテオは常に帝国領内に鋭く目を光らせ、反乱分子を鎮圧させあるいは、北の都市同盟へも牽制をかけている。今までテッドが関わった誰よりも、死に近い場所に立っている人たちだ。
食堂を出て階段を登る。廊下に置かれた花瓶には色鮮やかな花が生けられている。壁の肖像画は風景画が多いが、ひときわ大きな額縁にはテオの亡き妻でありラスティスの母である女性の肖像画が飾られていた。
その前を通り過ぎて、二階の一番奥にある部屋の扉を控えめにノックする。一呼吸置いて名前を呼ぶと、ちょっと待ってと帰ってきて二秒後にドアが内側から開かれた。
黒い髪に利発そうな顔立ちの少年が顔を覗かせる。テッドの姿をその大きな瞳で確認して、嬉しそうに表情を明るくさせた。
「テッド、帰るんじゃなかったの?」
「そのつもりだったんだけど」
夕食の席でも、ラスティスはテッドに泊まっていくことを勧めていた。しかしまだ雨も降り始めて居らず、長居する理由も見当たらなかったので彼は丁重にその申し出を断ったのだ。丁重に、とは言えまだ幼いラスティスにしてみれば無碍に拒否されたという印象が強かったのだろう。彼は普段よりもずっと早いスピードで夕食を終えると、部屋に閉じこもってしまっていた。
拗ねたのだろう、というのが食堂に取り残されたメンバーの出した結論。そうこうしている間にパーンが濡れ鼠で帰ってきて、グレミオ達に半ば言いくるめられる形でテッドはこうして、ラスティスの部屋を訪れている。
「入って」
大きく扉を開かれて中に招き入れられる。最後に訪れたのは、確か十日ほど前だったはずだ。ぐるりと室内を見回しても以前と大差なく綺麗に整理整頓されていて、無駄なものは一切無い少しこの年の少年にしては寂しい感じのする部屋だ。
「相変わらず綺麗にしてんのな」
天井まで見上げてから床に埃ひとつ落ちていないのを確かめ、テッドはさっさとベッドに腰を下ろして感心したように呟く。
「グレミオ、掃除好きだし」
呟きに苦笑して、ラスティスは壁に向き合う形で置かれている勉強机の椅子を引っ張り出してくる。後ろ向きに、つまり背もたれに腕を預ける形で座る姿は、真面目なくせにわざと悪ぶろうとしているようで不釣り合いに思えた。
「何笑ってるんだよ」
「いーや? べっつにー」
にやにやと、ラスティスが過剰に反応することを知っていながらの表情で笑ってテッドは言葉を濁し視線を外す。するとラスティスは彼が想像したとおりに頬を膨らませて睨んできて、尚更おかしくてテッドは腹を抱えて笑いたくなった。
「もう! テッドってば、なんだよ」
顔を赤くしてムキになるラスティスだったが、その行動自体がテッドの笑いを誘っているのだとまるで気付く様子がない。ドンドンと悔しそうに自分の膝を叩いて、挙げ句は椅子から立ち上がってベッドの上のテッドに掴みかかる。
「うぉっ!」
上からのし掛かってこられて、テッドはそのまま仰向けに転がった。真っ白い天井が見える、それと、覆い被さっているラスティスの黒い髪と。
「なにすんだ、危ないだろ」
「へっへーん、仕返し」
散々笑った罰だ、とあっけらかんと言ってラスティスはテッドに乗りかかったまま小さく舌を出す。その仕草がどうも子供臭くて、そんな子供に良いようにやられっぱなしは気にくわないテッドは、ふと妙案を思いつきにんまりと笑う。
「え……?」
彼の妖しさ満載の笑顔を観たラスティスは、何か嫌な予感を覚えて後ろに引いた。しかしそれよりも早く、テッドの両手が彼の両脇を捕らえる。
「うりゃっ、くすぐりの刑じゃ!」
「ひゃっ、やめっ、テッド……あ、あはははははっ!!!」
ラスティスの弱いところを的確に狙って擽ってくるテッドから何とか逃げようと彼は身を捻りベッドの上を転がるが、しつこく追いかけてくる手は巧妙で、いつの間にか壁際に追い込まれてしまったラスティスは逃げ場を失う。
「そりゃそりゃそりゃぁ!」
実に愉しそうなかけ声を上げてテッドはラスティスを擽り、
「やめっ、あはははっ、はははははっ!!」
実に苦しそうに笑いながら息も絶え絶えのラスティスは必死に抵抗して彼の腕を力無く叩き続ける。
「今日はまた一段とにぎやかですねー」
階下では、食後のお茶を楽しんでいたグレミオとテオがどたんばたん、という子供達の暴れ回る音を聴きながら朗らかに微笑んでいた。
「天井、抜けないと良いんですけれど」
パーンの食器を片付けながら、クレオだけが不安そうに天井を見上げて呟いた。
昔話を、聞きたい?
遠い、とおい昔。
力を求める人が居た。とてもとても強い力を欲しがる人がいた。
その人は、捜した。自分に力を与えてくれるものを。そして手に入れた、誰にも真似できない世界でたったひとつだけのとても大きな力を。
けれど、その人は同時に知ってしまった、そのちからに匹敵する別の、同じような力が他にも沢山存在していることを。
だから、その人は恐くなった。
自分と同じ力を手に入れたひとが、自分を脅かす存在になってしまうのではないか。やっと手に入れたこの力を奪おうとする存在があらわれるのではないか。
そしてその人は考えた。
だったら、ほかのひとがその力を手に入れる前に自分で見つけだして、自分だけのものにしてしまえば良いじゃないか、と。
そしてその人はたくさんの人と、力を使ってそのおおきなちからを探し始めた。
世界には、この力を使ってはいけないものとして守っている人たちが大勢居た。そんな人たちの村を、焼き払って、その人は力を手に入れようとした。
たくさんの守り人が殺された。力を守ろうとして、沢山の人がちからの犠牲になって死んでいった。
多くの、恨みが残った。
守り人の生き残りが、その人に対抗するための力をさがそうとした。その人よりもずっとずっと強い力を手に入れて復讐してやろうと心に誓った。止めようとしたひとの言葉もとどかなくて、復讐者はじぶんたちと同じ、別の力の守り人を襲った。
それは、昔むかしじぶんたちがあの人にされたこととおなじこと。けれどにくしみだけがおおきくなってしまったその子は、ちっともそんなことにきづかない。
にくしみと、哀しみが増えた。
はじまりは、小さな欲望。いつのまにか、それは世界を巻き込む大きな、おおきすぎる、哀しみを引き起こした。
どうして、どこで、なにがいけなかったのだろう。
考えて、考えて、考えて……いくら考えても答えなんて結局見付からない。
誰も本当のことを知らない、解らない。
ただ言えるのは、大きすぎるちからは恩恵を与えると共にそれに見合うだけの災いを引き起こす、それだけは、確かで。
望みもしない争いや諍いに巻き込まれ、流されて、失って、壊されて。泥水の上をがむしゃらにはい回って逃げるしかなかった。助けを求めるこえをあげても、返ってくるのは虚空に反響するじぶんのこえばっかり。
誰もいない。
ここにはひかりすらない。
闇ばかりがひろがっている。
世界を照らし出す太陽はとおすぎて手に入らない。
暗い。闇い。くらい。
だれも、なにもない。
せかいじゅうで、ひとりぼっち。
独り
一人
ひとり
何故?
どうして?
わからない。
判らない。
分からない。
解らない。
こたえなんて、だれもしらない。
「っ!」
誰かの、いや、あれは恐らく自分の声だったのだろう。泣き声で、目が覚めた。
ひとりで寝るには少し広すぎて、ふたりで眠るには少し狭すぎるベッドで汗だくになり、テッドは乱れた呼吸を暗闇の中で整えようと息を吐いた。
隣では、そんなテッドなどまるで知らずにラスティスが行儀良く寝息を立てている。目覚める気配は今のところ全くない。その彼を見下ろしてホッと胸をなで下ろし、テッドは彼を踏まないように気を払いながらベッドから降りた。
素足の床はひんやりとして冷たく、悪夢に魘された後の火照った体には心地よかった。そのまま壁際まで寄り、閉められているカーテンの端を持ち上げて外を眺める。
落雷の音が遠くで響いていた。空を突き破る光の筋が闇を切り裂いていく。
まるで自然が何かに対して怒りの声を張り上げているようで、観ていて胸を締め付けられる思いだった。
「早いうちに、去った方が良い……」
自分に言い聞かせるように、そんな事を口にする。これ以上此処にいたら、離れられなくなりそうだった。
ずっと餓えていた人との温かな交わりを此処の人たちは余すことなく自分に与えてくれる。暖かく美味しい食事と、柔らかいベッドと、日溜まりのような笑顔に満ちた家族がここにはある。彼らは自分もその家族であると、一員として迎え入れてくれている。
多分、距離を置こうとしているのは自分の方だ。そしてその事もふまえた上で、どうすれば本当に心を許してくれるのか色々と裏で画策しているのも見え見えだった。望まれている、そう思うと尚更頑なに拒もうとしている自分が哀しく思えてしまう。
認めてしまえば楽になる、自分は本当は此処にいたいのだ。
だが、それは出来る事ではない。右手に、ソウルイーターがある限りこいつはマクドール家の人たちを不幸に陥れるだろう。それが解っているからこそ、自分は益々此処にいるべきでないと思い知るのに。
同時に、今度こそ守ってみせるという気持ちが膨らんできてテッドの心を圧迫する。
「う、ん…………れ、テッド?」
寝返りを打って、もぞもぞと動いたラスティスが其処にいるはずのテッドが居ないことに気付いたらしく、眠そうに瞼を擦りながら身を起こした。
「あ、悪い。起こしちまったか?」
まだ幼さが全面に残っているあどけない少年を振り返り、テッドは苦笑した。背後ではまた、遠くで雷が発生し一瞬の閃光を周囲にまき散らしていた。
「ん~……なに、かみなり?」
その音でテッドは目を覚ましたのだろうと、カーテン越しに光った闇の空を見て彼はベッドの上に座り直す。しきりに目を擦っているのは、まだ覚醒し切れていない為に視界が曇ってしまっているからだろう。
「うん、そう。凄い音がしたから」
本当は、落雷の所為ではなく悪夢に魘されていたからだったけれど、そんなことが言えるはずがない。けれどあんな風な夢を見たのは、街の上空を通り過ぎていく雷雲の音がきっかけだったのかも知れない。
あの音は戦場で聞く兵士達の雄叫びに何処か似ているから。
「テッド、雷恐い?」
「そうじゃねーって」
大分遠くなった雷鳴に大きな欠伸をしてラスティスは首を傾げた。すぐさまテッドは反論して苦笑したが、眠りの最中で目を覚ました彼には通じなかった。
ラスティスは「ん~~」と少し考え込んで、何を結論付けたのか解らないが無言のままぽんぽん、と自分の膝を叩いたのだ。
「ラス?」
怪訝な顔をして見返すテッドに微笑んで彼は手招きをする。よく解らないままカーテンを引きベッドへ戻ったテッドは、ラスティスの手に引かれて横に寝転がった。
「おい……」
冷や汗、たらり。
テッドの頭部は、ふたつ並んだ枕ではなく何故か、ベッドの上に座っているラスティスの膝の上に置かれたからだった。しかし彼はテッドの冷たい視線に臆することもなく、逆に彼を安心させようとしての行動か手をゆっくりと動かして肩を叩き、背中をさする。
「眠れない時、母様がこうしてくれたんだ」
殆ど記憶にも残っていないはずのラスティスの母の、数少ない思い出を口に出してラスティスはそっと、テッドの髪を梳く。なんだか納まりが悪くてテッドは心がむず痒かった。
こんな風に誰かの膝に抱かれて横になるなんて、何百年ぶりかで思い出すことも出来なかった。
トントン、と一定のゆっくりとしたリズムを崩すことなくラスティスの手はテッドの背を撫でて包み込んでくれる。間近にあるラスティスの心音が聞こえてくるような気がして、無性に懐かしくて涙が出そうになる。
「テッド?」
急に静かになったテッドに首を捻るラスティスが名前を呼んだが、彼は答えなかった。今返事をしたら、ガラにもなく泣きそうだったから。かわりに腕を伸ばしラスティスの背に手を回して自分からも抱きしめる。
頭上で、彼は笑ったようだったが何も言わなかった。
聞こえてくる雨足はだんだんと弱まっている。きっと明日の朝には止んで、昼前には太陽も顔を覗かせることだろう。
「明日、外へ遊びに行こうね」
三百年も生きてきているくせに、自分はまだこんなにも子供で心細かったのかと思い出して、テッドは無言のまま頷く。
その日は、久しぶりに何の夢も見ずに朝までぐっすりと眠ることが出来た。