幸せと不幸の方程式

 その日、朝からガゼルの姿が見えなかった。
 だが、別にそれ自体は珍しいことではなかったから、ハヤトもリプレも大して気にしていなかった。
「回復薬が残り少ないな……」
 部屋で荷物の整理をやっていたハヤトは、ここ数日続いていたオプテュスとの戦闘でたっぷりと買い込んでいた回復薬が一気に減ってしまっていることに気付いた。
「またバノッサがいつ攻めてくるか分からないし……買い足しに行ってくるか」
 幸い、金銭面で問題はない。戦いが多いとその分戦闘後の実入りが大きいからだ。本当はこんなかつあげのような事はしたくないのだが、背に腹は代えられないというし。
『どうしても気になるというのなら、身代金だと思えばいい』 
 以前そのことを言ったら、レイドはそう返した。人質にされたり、命を奪われる変わりに相手に払う金だと考えろ、ということだ。要するに敵の命を金に置き換え、見逃してやっている事と同じだ。
「それもどうかと思うけどなぁ」
 ぽつり呟き、少し重い財布を持ってハヤトは部屋を出た。
 食堂には誰もおらず、台所を覗いて彼はリプレに声をかけた。
「ちょっと買い物に行ってくるよ」
「え? あ、うん、分かった」
 朝食の食器を洗っていたらしいリプレが、激しい水音にかき消されないように大きめの声で振り返らずに答えた。
「すぐに帰ってくるから」
「うん、いってらっしゃい」
 商店街に行って薬を買ってくるだけだから、そんなに時間がかからないだろう。端の欠けた大皿の水気を切っていたリプレが頷くのを確認して、ハヤトは台所を出る。食堂に戻ると、さっきまではいなかったキールがいた。
「出かけるの?」
「うん。ちょっと、商店街までね」
 一緒に来る? と尋ねるとキールは少しだけ考え込み、首を横に振った。
「今日は遠慮しておくよ」
 どうやら他に用があるらしい。マントを翻してキールは自分の部屋に帰っていった。
 子供達もどこかへ遊びに行っているのか、姿が見えない。エドスとジンガは石切の仕事だし、レイドとアルバは剣術道場だ。モナティは……多分、まだ寝ているのかもしれない。エルカは神出鬼没だし、ローカスはその辺の見回りに出ていったはずだ。
「んー、いい天気だ」
 外に出ると暖かい風が心地よい。ぽかぽか陽気に誘われて、何処かへ遊びに行きたい気分だが、そうも行かない所が哀しい。
「さっさと用事を済ませてくるか」
 胸にしまった財布を服の上から確かめ、ハヤトは足早に商店街へ向かって歩き出した。
 スラムを抜け、明るい作りの街並みに入る。急に人の往来が増え、道の両脇に色鮮やかに飾り立てられた商店が並ぶ地域に出た。
 今日もいつものように商店街は賑わっている。綺麗に身を繕った夫人が従者を連れて闊歩し、それを避けるようにして貧しい身なりの人々が道の端を歩いていく。天下の公道ではあるが、目に見えない線で道はふたつに分断されているようだった。
 ハヤトは人混みを避け、行きつけの薬局へ足を向ける。いい匂いを立てて食べ物屋が彼を魅惑的に誘うが、それをグッとこらえ、ハヤトは早足で店を目指す。
 だが、ふと向いた道の反対側に見慣れた人物の姿を認め、足を止めた。
「……ガゼル?」
 朝からまったく見かけることのなかったガゼルが、やけに周囲を気にしながらハヤトの進む方向とは反対側に向かって歩いている。まるで何かを探しているようで、誰か知り合いとはぐれでもしたのか、といぶかしんで見ていると。
「…………」
 スラムで暮らす彼とはとても知り合いとは思えない、豪奢に着飾ったいかにも、という風貌の中年女性に近づいていった。
 ちょうど女性とすれ違う瞬間、ガゼルが何かをやったような気がした。しかしハヤトの位置からでは遠すぎて確認できなかった。それに、中年女性も特にガゼルを気にした様子もない。従者に口やかましく何かを指示して、側の衣料品店に入っていった。
「?」
 だが、女性を無視して歩き続けるガゼルの顔は、この距離からでもはっきりと分かる。楽しそうだ。
 あの表情は……なにか、悪巧みをしている時にガゼルが見せる顔だ。もしくは、悪巧みが成功したときにか。
 ハヤトは意を決し、人混みをかき分けて道を横断した。途中ぶつかりかけた男性に怒鳴られたが、軽く謝ってガゼルを追いかける。見失わないように時々背伸びをして、ガゼルの癖のある背中を探す。
 彼は大通りを外れ、脇道に入った。
「ガゼル!」
「ぅおわ!」
 見失ってしまう。そう思ってハヤトは脇道に入る瞬間に大声で叫んだのだが、ガゼルは大通り沿いのすぐそこに立ち止まっていて、まともにハヤトの大声を間近で受けてしまった。
「なっ……、脅かすな!…………って、ハヤトかよ」
 誰だと思ったのだろう。大きくのけぞって、しかも片手は腰のナイフに伸びかけていたガゼルに、ハヤトは不審の目を向ける。何故、そんなに驚く必要があるのか。
「ガゼル?」
 危うく肝を冷やしたハヤトは、だが視線を彼のナイフから胸元にやったところで首を傾げる。
「それ、なに?」
 指を差して示したのは、ガゼルがもう片方の手でしっかりと握りしめている小さな、それでいてしっかりと縫製されて飾り石も付いている布袋だった。内容物のずっしりとした質感が傍目からも見て取れ、その中身が硬貨であることが容易に想像できた。
 ――ひょっとして……
 先程のガゼルの不審な動きを思い出し、ハヤトは顔をしかめた。それを見て彼はしまった、という顔を作る。
「もしかして、ガゼルお前……」
「だーー!!! それ以上は言うな」
 皆まで言わずとも分かっている、と先にわめいてハヤトの口をふさぎ、彼はまだ何か言いたげのハヤトの腕を強引に掴む。そしてずるずると引きずるように、路地の奥へと連れていった。
 表はあれほどに明るく、賑わっている通りも一本二本、通りを過ぎてしまえば一気に静かで人の気配がしなくなる。じめじめした空気がつん、と鼻につきハヤトは眉を寄せる。
「スリはもうしないって、約束したんじゃなかったのか」
 ようやく立ち止まってくれたガゼルの拘束から逃れ、ハヤトは彼を睨んだ。ばつが悪そうに、ガゼルは頭を掻く。
「ああ……けどよ、聞けよ。俺にだって言い分はあるぜ」
 開き直ったか、ガゼルはやや唇を尖らせてはいるものの反省の色は見せないで言った。
「最近フラットに人間が増えて、……分かるだろ、金が足りねぇって」
「…………それは、そうだろうけど……」
 そこを指摘されたら、ハヤトは強く出ることが出来なくなる。なにせフラットの人数が増えたのは、半分以上がハヤト関連の問題だったから。
「しかも、収入額は変わってない。ジンガの奴が働いてるけど、それで足りるわけがない。かといって、俺が働こうにも出来る仕事なんて限られてる」
 盗賊という職業柄、どうしてもガゼルが出来そうな仕事には世の中の裏関係がまとわりつく。フラットにはまだ小さい子供もいるわけだし、これ以上余計な厄介事を持ち込むことは避けたかった。
「けど、スリは良くない」
 結局、スリだって人の上前をはねているわけだし。
「もともとこの金は俺達が汗水流して働いて払った税金だぜ?」
「話をすり替えるな」
 ハヤトが怒って言うと、ガゼルはぷう、と頬を膨らませた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「それは…………それに、仕事もしてないガゼルがいきなり大金を持って帰ったら、リプレじゃなくてもすぐに気付くんじゃないのか? その金が、もともと何処にあった物かって」
 それこそ話をすり替えていやしないか、と突っ込みたかったガゼルだが、痛いところを指摘されて口ごもる。
「リプレは受け取らないと思うけど?」
「やっぱ、そう思うか……」
 急に沈んだ声になって呟いたガゼルに、ハヤトは「おや?」となった。
「だろうなー。リプレ、怒るだろうな……」
 なんだ、ちゃんと分かってるのかとハヤトは妙なところで感心してしまった。この様子だと、今更ハヤトが言わなくてもガゼルは気付いているし、理解している。人の金を盗むのは、いかに己を正当化しようとも罪であるということを。
 わしゃわしゃと短い髪を掻きむしり、ガゼルは重いため息をつく。それにつられ、ハヤトも小さく息を吐いた。
「それで、それはどうするの?」
 今更本当のことを言ってあの夫人に返しに行くのは、捕まえて下さいと言いに行くようなもので、馬鹿らしく危険だ。多分向こうは躍起になってこの財布を盗んでいった人物――要するにガゼルを探しているだろうし。
 今、オプテュスとの闘争が激しさを増している中でガゼルが抜けるのは大きな痛手だ。だからハヤトは、彼に「返しに行ってこい」とは言えないでいる。
 偽善だな、と思った。
 盗んだ財布の中身は結構な量だ。多分、一度ではとても使い切れないだろう。いっそ皆の新しい防具をこれで揃えてしまおうか、とよからぬ事を考えてしまい、ハヤトは慌てて頭を振った。
「なにやってんだ」
 それが余りに唐突だったから、目の前にいたガゼルに驚かれてしまったけれど。
「どうするもこうするも……ぱーっと使いきっちまうしかねぇだろ」
 財布の重みを確かめ、中をのぞき込んだガゼルがくらっ、となる。一瞬気の遠くなりそうな額が入っていた。
「あのばばぁ……凄ぇ」
 一番金を持っていそうな人間を狙ったのだが、ここまでとは想像しておらず、ガゼルは息を呑む。これだけあれば数日……いや、一月は楽に食べて行けるかもしれない。
「どうするんだよ、こんな大金」
「どうするって……使うしかないだろ」
「どうやって」
「……博打」
「怒るよ?」
「もう怒ってんじゃねぇか」
 ばこ、とガゼルの頭を拳で殴ったハヤトに、彼はよほど痛かったのか涙目になって訴えてきた。
「冗談だって。それくらい分かれよ」
「ガゼルが言うとシャレにならないんだよ、そういうこと」
 前に一度、ひと稼ぎしてくると言ってなけなしの金を持ち出し、博打で散々に負けて帰ってきた、という前科を持つガゼルだから、ハヤトはどうも神経質になってしまう。以来フラットでは賭事は禁止にされてしまった。
「どうするか……」
 男ふたり、路地裏で腕組みをして考え事をするのも妙な光景だ。
 そんなこんなしているうちに時間はすでに昼。意識していたわけではないが、どうも体は正直で、前触れもなくググーと腹の虫が鳴き、空腹を知らせてきた。
 果たしてどちらの腹が先に鳴いたのか。顔を見合わせたハヤトとガゼルは互いに苦笑しあい、先に飯にありつこうとこの暗い路地裏から表通りへ出ようと歩き出した。
「そういえば俺、買い物に行く途中だったんだっけ」
 ガゼルを追いかけた所為で今まですっかり忘れていたが。
 人ごみが見え始めた頃、ハヤトがぽんと手を打って思い出す。それに、出かけるときリプレに早く帰ってくる、と言ってきてしまった。
「いいって、いいって。気にすんなよ」
 からからと笑い、ガゼルがハヤトの背中を叩く。
「どうせろくな昼飯じゃないからよ。今から帰ったって冷めちまってるだろうし、なんか食っていこうぜ」
 そして彼が指し示した先には、いい匂いを漂わせている食べ物屋が並んでいた。思わずハヤトも唾を飲む。
 外食は清貧の敵。だが今、彼らの手元にはあって余りあるほどの大金が握られている。自分たちのお金ではないのだが……。
 ごくり、と隣でガゼルも唾を飲み下す音が聞こえ、ハヤトはそちらを見た。視線が交わり、ふたり、言葉に出さずともお互いが何を考えているのか理解できた。
 多分、戦闘中もこれくらい意志疎通が出来ればもっと効率よく戦えるのだろうが……。
 ハヤトとガゼル、基本的なところでふたりはとても子供だった。
「いっただっきま~っす!」
 威勢良く食前の挨拶を口に出し、ガゼルはほかほかのホットドックに食らいついた。ハヤトも、出来立てのクレープに似たフルーツたっぷりの甘いサンドイッチにかぶりつく。クリームが端から漏れ出て、ハヤトの口の周りに白い髭を作る。一方のガゼルも、ソースが茶色の髭になっていた。
「んめ~」
「本当だ。結構いけるね、これ」
 初めて食べたから正直ドキドキだったが、思っていた以上に甘さも控えめで食べやすい。ただちょっと、皮が薄くて破れやすいのはいけてない気もするが。
 歩きながら食べるのは行儀が悪いとは思うが、そういう事が出来るような形に作られている食べ物だから、別にかまわないだろうと言うのがガゼルの弁。道行く人にぶつけないようにするのが一苦労だが、食事時であるためか、大通りの人出はさっきよりも幾分マシになっている。
 この先の角を右に折れれば、ハヤトの目指すショップに出る。そこに着くまでには食べ終われそうだ。
 だが。
「マスタ~~」
 ばふっ、といきなり後ろから不意打ちを食らってハヤトは手にしていたクレープを、残りあと3分の1のところで落としてしまった。
「マスター?」
「も、モナティ!?」
 これぞ予測不可能な人物の登場。脇でガゼルも驚愕の表情に顔を歪めている。
「どうかしましたですのー?」
「え、あ、いや、その……」
 モナティが一人きりでこんな所に来るはずがない。残り少しとなったホットドックを手にきょろきょろと周囲を見回すガゼルとハヤトに、モナティは不思議そうな顔をする。
「それ、何ですの~? とってもいい匂いがするですの?」
「へ? あ、こ、これはだな、その、あれだあれ」
「そうそう、あれ」
「あれって何ですの~?」
 頭の回転が速くない彼女には、ふたりがどうしてここまで狼狽えているのかがまったく理解できていない。ハヤトはモナティを背中に負ぶったまま、乱暴に袖で口元のクリームを拭った。
 しかし、時すでに遅し。
「ガーゼールー?」
 地鳴りにも似た音を背負い、ふたりが今一番会いたくない……もとい、最も恐れている人物の声が白昼の町中にとどろく。
「ハーヤートー?」
 ひくり、とふたりの表情が引きつった。
 真後ろ、すぐ近く。振り返ることすら恐ろしい。
 が、ここで逃げる方があとでもっと恐ろしい目に遭わされることは目に見えて明らかだ。彼女の怒りのオーラは赤い炎となって彼らを包み込み、蛇の舌のようにちろちろとふたりにかぶりつこうと待っている。
「あ、あは、あはははははは…………」
 冷や汗が滝のように背中を伝わり落ちて行く。
 至極ゆっくりと、まるで油が切れて動きの悪くなったブリキのおもちゃのような動きで、ハヤトとガゼルは後ろを振り向いた。
 リプレが腰に手を当て、仁王立ちで待ちかまえていた。手には編み籠がぶら下がっているから、多分夕食の買い出しに来た途中だったのだろう。モナティはその荷物持ちか。
「ふたりとも、何やってるのかなー?」
 口調はとても穏やかだが、彼女の目は決して笑ってなどいない。微笑みを浮かべているように傍目からは映るかもしれないが、それがリプレが本気で怒っているときの表情なのだ。
 普段大人しい人ほど、怒ったときが恐いとよく言うが、まさしくその典型ではないだろうか。
 ハヤトの手には、クレープの包み紙が。ガゼルの手には食いかけのホットドックが、それぞれしっかりと握られたままだ。更にガゼルに至っては、口周りにソースがべたべた。汚い。
 にっこり、とリプレが笑う。背筋が寒くなるその微笑に、ガゼルはがちがちと寒くもないのに震えている。ハヤトも、モナティが100キロの石の固まりのように感じられていた。
 ――に、逃げたい!
 よりにもよって、何故彼女に発見されてしまったのか……。悔いが残る。
「ずいぶんと美味しそうな物食べてるじゃない? どうしたのかしらねー、それ」
「あ、いや、これはその……」
「口答えしない!」
「…………はい」
 小さくなって、ガゼルとハヤト、しゅんとうなだれる。
「?」
 モナティだけ、まだ分かってない。
「そんなに私の作るご飯が不満だったら、もう帰ってこなくてもいいわよー? 別に」
 その方が食費が浮いて助かるしね、と嫌味と丸分かりの事を言われても反論できない。情けないが、フラットで彼女に逆らって生きていける者はいない。まだレイドに見付かる方が百倍マシだった。
 今更言っても仕方のないことだけれど。
「ふたりとも……ご飯いらないのね?」
「え? いや、そんなことは……」
「ふーん……?」
 疑いの目を向けられて、慌てて首を振って否定するがリプレは信じてくれない。大の男がふたり揃って、公道の真ん中で泣きそうな顔をしている。道を行く人々の視線を集めながら、ハヤトとガゼルは二度と買い食いはするまい、と心に誓うのだった。
 
 その日の夜、ハヤトとガゼルは仲良く夕食を抜かれ、罰としてトイレ掃除一週間を言い渡されてしまい、泣く泣く柄付きたわしを握る姿が目撃された。