irritate

 ちらちらと感じる視線。
 しかしその視線の持ち主の姿は何処にも見当たらない。
 だのにしっかりとした意志を内包している視線は確実に、存在している。
 休ませることなくフォークとナイフを持つ手を動かしながら、ユーリはさっきからずっと感じている視線を気にしていた。
 表面的には気付かないフリ……無視を決め込んでいるので顔に出ていないが、実のところ彼はかなり不機嫌だった。
 不躾な好奇心に寄るところが大きい視線は巨大な棘のようであり、神経を逆撫でする。食事を覗き見される趣味は持ち合わせていないし、食事以外の時間でもこんな風に卑怯な方法を使っての接触はお断りだった。
 今まで何度も注意してきている、だが彼は一向に気に留める様子も見られず今日もまた、同じ事を繰り返している。
 解っているのだ、彼の魂胆は.
 普段からの悪戯心の延長で、ユーリの怒りを誘い普段表情を滅多に変えない彼の違う一面を見て笑いたいだけなのだ、スマイルは。
 だから無視している、そんなつまらない誘いにわざわざ乗ってやる必要など無い。
 スマイルは透明人間、姿を自由自在に消して、現す事が出来る。感じるのは視線だけで、姿は今は見えない、恐らく真正面に立っているのだろうがそれも確証を得る事は難しい。
 姿が見えているのであれば、視界の中にその形がどうしても飛び込んできてしまって無視を貫くことは難しい。しかし視線だけであればまた話は違ってくる。
 どんなに目を凝らしたところで、どう頑張ってもスマイルの姿を捕らえることが出来ないのであれば、唯一彼の存在が此処にあることを示している視線を弾いてしまえばいいだけのこと。
 スマイルはここには居ない、誰も居ない。そう思いこんでしまえば、自然と彼の不躾な視線はシャットアウト出来る。そうすれば、アッシュの作った手の込んだ料理もじっくりと味わえるというもの。
 淀みない動きでフォークとナイフを操りながら、小さくカットした肉料理を口に運び入れる。丁度良い火加減で調理された肉は軟らかく、ソースも良い具合に絡んでいて文句なしだ。
 つい、スマイルが此処に居ることも忘れて顔を綻ばせてしまう。
 やはりアッシュをメンバーに招いたのは正解だったようだ、自分の判断の正しさを改めて実感してユーリはワイングラスを優雅に傾けた。
 そう広くないテーブルに所狭しと並べられた食器は、ひとつのテーマを持って縁取りや飾りが統一されている。グリーンのラインを絡め合わせた肉皿のそれは、古城の外壁を覆う蔦をイメージしているらしい。その脇に添えられているサラダが盛り合わされた小皿には、赤やオレンジといった小さな円が緑の中に見え隠れしている。これは、森の木々が実らせている果実を模しているとか。
 ワインの赤は、さながら豊穣の象徴か。
 グラスを揺らし、波立つワインに目を細めたユーリは赤に映える白い手でそれをそっとテーブルへ返す。
 しかし。
 がちゃっ、ががちゃっ。
 一瞬テーブルが揺れて、それほど距離を持っていなかった食器とワイングラス、そして手を休めていたために肉皿に置かれていたフォーク類が鈍い不協和音を奏でたのだ。
「……っ」
 何事か、と倒れ掛けたグラスの根本を慌てて指先で押さえたユーリは、その瞬間、ふっと目の前の視界が歪んだ事に怪訝な表情を作る。
 その歪みは直に納まり、その代わり今まで何もなかったはずのテーブルの向かい席に、くすんだブルーの髪を持った男が現れた。テーブルに顔面を突っ伏した姿でいる為に顔は見えないが、焦げ茶色のコートを身に纏い全身のそこかしこを包帯で覆っているそれはまさしく……スマイルに他ならず。
 テーブルの上で両の拳を握りしめて悔しそうに微かに震わせている。一体何が原因か解らないが――恐らく、テーブルに頭突きをした時に集中力でも切れたのだろう――透明人間形無しで、スマイルは其処に居た。
 なにをしているのだか……。
 呆れた調子でユーリはスマイルをしばらく呆然と眺める。一方、スマイルは自分の透明化が解けていることにもまるで気付いていない様子で、ずるずると腕を下ろし交代に頸を持ち上げて顎をテーブルに置き顔を上げる。
 その瞬間、目があった。
 お互い、ぎょっとした顔をしてしまって急ぎユーリは顔を背ける。何事もなかったかのように素知らぬ素振りで食事を再開させようとしたが、何故か手が震えて巧くフォークを操れない。
「アレ?」
 そこへ天の助けか。
 それまでキッチンで残りの料理を仕上げていたアッシュが、デザートの載った皿を片手に姿を現す。そしてテーブルと、キッチンとこの部屋とを繋ぐ扉の丁度中間当たりで足を止めた。
「スマイル、何してるんっスか?」
 心底驚いているらしいアッシュの声に、かろうじて不器用な動きながら食事を再開させる事に成功したユーリの手が止まる。最後の肉切れを口に運ぶ寸前で止めてしまったために、垂れてきたソースが膝の上に敷いていたナフキンに落ちた。
「え?」
 そんなユーリの目の前で、スマイルがこれまた間の抜けた声を出す。
「あれ?」
 スマイルは首を傾げる。そして、自分の手で自分を指さして、
「見えてる?」
「ばっちりっス」
 こくり、とアッシュは頷いた。途端にどうして良いのか解らないと言う顔になってスマイルは居心地悪そうに視線を巡らせた。その手前で、アッシュは持ってきたデザートをユーリの前に差し出す。
 コト、と綺麗な音を立ててアイスクリームの載った皿がテーブルの一角を飾った。
「どーしたんスか? スマイルが此処に来るなんて珍しいっスね」
 その一連の短い作業を終えて、人心地ついたらしいアッシュが未だテーブルに顎を置いて座っているスマイルを見下ろして笑う。その顔に思わず不機嫌さを表に現した彼だったが、アッシュは全く意に介した様子無く、
「スマイルもなにか食べるっスか? 沢山あるから持ってくるっスよ」
 くるりと方向転換して、今さっきまで居たキッチンに戻ろうとした手前で尋ねてきたアッシュに、ちらりと視線をユーリに流したスマイルは彼が綺麗に口元をナフキンで拭っているのを見た。
 肉料理はもう食べ終えていて、あとは少し残してあるサラダを終えれば今出ていたばかりのデザート。それで本日の夕食は完了。
 間近で交わされているアッシュとスマイルの会話に全く耳を貸す様子無くサラダ皿にフォークを向けたユーリの、その目的が赤い色鮮やかなミニトマトに向いているコトに気付いてふと、スマイルは笑った。
 腕を持ち上げ、テーブルの上で組みその上に顎を置き直す。
「ん~……」
 わざと悩む素振りを見せてから、
「要らない」
 たった一言、アッシュへと返しテーブルに添えたばかりの両手に力を込めて立ち上がる。
「そうっスか」
 いかにも残念そうな声を出して、アッシュは踵を返しキッチンの後始末をするためか部屋を出ていこうとした。
 ユーリが、フォークを器用に操って直ぐに転がってしまうミニトマトを掬い上げることに成功する。そのまま、落とさないように慎重に構えて口元へ運ぼうとしている。
「うん。ぼくはこれでいいや」
 アッシュへの返事のつもりで呟いて、スマイルはトマトを落とさないことだけに意識を集約させていたユーリへと顔を近づけた。
 そして。
 ぱくっ、と。
 スマイルが一体何の事を指して今の言葉を告げたのか解らず、確かめようと振り返ったアッシュがその瞬間を見てしまい「あ」と声を上げて硬直した。
 ユーリも、目の前にあった赤を攫われて呆然と目を丸くする。
「ご馳走様」
 ぱんっ、と両手を合わせてスマイルだけが場の雰囲気にそぐわないのほほんとした口調で言う。
 そのまま、なんとも表しがたい空気が空間を支配する。
「なっ……」
 先に我に返ったのは、ユーリ。握っていたフォークを更に強く握りしめて、それを思い切り勢いよくテーブルへ叩きつけた。その衝撃は先程のスマイルの頭突きの比ではなく、がしゃんっ、と跳ね上がったワイングラスが傾ぎテーブルの端から床に落下してしまう程だった。
「っスマ、スマイル!」
 余程動揺しているのか、舌が回りきらない息の詰まった声で彼は怒りたいのか照れたいのか判別のつかない顔をする。
「は~い」
「貴様、何のつもりで!」
「あ、あのユーリ、落ちつくっス」
 そんなユーリを実に愉しそうに眺め、ケラケラと笑っているスマイルに堪忍袋の緒が切れたのか。椅子を蹴り倒して立ち上がったユーリは今にもスマイルに掴みかからんとする勢いだった。
 それを慌てて戻ってきたアッシュが押し留め、その先で笑っていたスマイルがフッと姿を消した。
「スマイル!」
 今日という今日こそ許さない、そう息巻いてユーリは何処に消えたのか解らないスマイル目掛けて怒鳴った。
 その開かれた唇に、冷たい何かが触れる。
 一瞬で離れていったそれがなんであるか、直ぐには理解できなかったユーリだが直後、耳元で自分だけに聞こえる音量で囁かれた内容により、それがスマイルの指先であることを思い出した。
 捕まえようと手を伸ばしても、もう其処には彼の気配など欠片も残っていない。
「誰が食させてやるものか!」
 虚空に向けて怒鳴ったユーリに、アッシュだけか蚊帳の外で解らないという顔をしていた。