貴方の横に立つ特権

 例えば自分が男であり、相手も男であっても、「あ、この人憧れるな」だったり「この人って格好良いよな」と思う人は居るだろう。
 オレにとってはそれがあの人であって、他には? と聞かれても多分あの人しか思い浮かばないに違いない。だから昼休みなんかに食堂へ行こうと廊下を歩いている時に犬飼の奴が女子に追いかけ回されているのを見かけても、ばっかじゃねーの? とくらいしか思わないし、そりゃ少しは悔しいしなんであんなのが、と思うけどそれくらいで終わる。
 けど、さ。
 あの人が女子に囲まれてにこやかに微笑んでいるのを見かけたら、つい足が止まってしまうんだ。
 別の羨ましい、……ちょっとは羨ましくてそのうちのひとりくらい分けてください、って言いたくなりもするけれど。
 少なくとも犬飼のを見かける時程には、悔しさを感じない。だってあの人は凄くその光景が似合っているし、当たり前のように受け流しているあの人も結構凄いけど、それが違和感ないってのがまた、凄い。
 なにやらせても凄い人なんて、そんな奴は居ないって高校に入るまで思ってた。
 違うんだな、世の中にはなにをやっても様になる人が居るんだ。
 立ち止まったままぼんやりと、貴重な昼休みの時間が減っていくのにも構わずオレは食堂に至る手前の廊下でその光景を眺めていた。窓枠に置いた手は力も入らず、項垂れるように垂れ下がっている。
 あの人の回りには女子がひい、ふう……合計して六人、いや七人か。ファンの女の子が居て手製の弁当を押しつけようと必死になっている。あんな風に接する事が出来る事自体、あの女の子達を尊敬してしまいそうだ。
 知れば知るほど、あの人の凄さを実感してしまうオレは、だから部活中でもあの人を遠くから眺めるだけ。本当は色々と教えて貰いたい事や、学び取りたい事も沢山あるのに声をかけるのさえ憚られる雰囲気があって、二の足を踏んでしまう。
 こんなのは多分、オレらしくないんだろう。いつものオレならさっさと隣に行って、年上相手でも構うことなく肩を叩いて、お願いしますのヒトコトを口にしているはずだ。
「は~~」
 思い切り盛大なため息を零しオレは窓枠に置いた自分の手に顎を置いた。恨めがましい息は灰色に塗り固められていて、背後を通り過ぎていった別のクラスの奴がぎょっとして足早に去っていった。昼休み前まで散々鳴り響いていた空腹の虫も、すっかりなりを潜めて大人しくなっている。
 オレの目指すべきところに居る人、それがあの人。
 だけどどう頑張ったところで、到底追いつけやしない遠い人。近付くことさえ恐れ多いと感じるようになったのは、合宿が終わる前。見せつけるように打ち込まれたホームランはオレのようなまぐれの一発勝負なものじゃなく(一応自覚してんだぜ?)、完璧に予定されて予測された代物。オレが目指したい場所に、既に立っていて更にその上を行こうとしている人。
 尊敬する、尊敬して……一緒に嫉妬する。
 その才能の一割、いや1%でも良いからオレに分けてください。そうしたらオレは、もっともっと凄い奴になれるのに。
「ふ~」
 溜息再び。今度こそ窓枠に寄りかかったオレの視線が向いた先で、不意に誰かが微笑んだ。
「え!?」
 今までこのまま地中の奥底にまで沈んでしまいそうだったオレは、一気に目が覚める想いで身体を立て直した。今目の前で起きている事が信じられず、慌てて二本足で立ち、窓の向こうの光景を凝視する。
 オレの存在になどまったく気付いているはずのない、その気配すらなかったあの人がオレの向けて笑いかけ、あまつさえ手まで振っていた。それはかなり微細な動きではあったけれど、オレの視力を甘く見ないで欲しい。多少色眼鏡が入っているところは否定しないが、あの人の動きだけは絶対に見間違えない自信がある。……考えてみれば、変な自信だ。
 あの人は押しつけられていた弁当箱を暫く見つめたあと、やや肩を竦める仕草をして受け取った。それも全部だから、合計七個。途端に女子陣の間から黄色く甲高い悲鳴があがった。
 それからあの人をどこかへ連れだそう……恐らく食堂の近くにあるベンチかどこかで一緒にランチを、と考えていたのだろう女子が彼の腕を引っ張った。あの人はけれど、その申し出をやんわりとした仕草で断った。
 ごめんね、の言葉に女子陣から一斉に非難めいた悲鳴があがる。困った顔をしたあの人がそれでも重ねて謝罪の言葉を口にし、取り巻きを振り解いて歩き出した。
 オレの、方へ。
 制服姿の女の子達が揃ってあの人の進行方向に居るオレを観た。誰かが嫌そうな顔をするのが分かる、そんな顔されても、オレだってどうしてあの人……主将がオレの方に来るのか分からないってのに。
 睨まれてる、オレ。もの凄い形相で。
「待たせたね」
 けれどこの人はまるで意に介した様子もなく、地上から一階の校舎内廊下、窓際にいるオレに声をかけてきた。しかも内容はまるで、オレと主将が待ち合わせていたかのようなもので。
 オレは返す言葉が見当たらず、目を白黒させてしまう。すると主将は口元に手をやって控えめに笑い、抱えている弁当箱を身体の動きでオレに示した。
「話は、これを食べながらにしようか」
 お昼ご飯まだなんだろう? そう重ねられる言葉にオレは反射的に頷いた。けれど、話って……?
 主将は構わず歩き出した。オレは慌てて廊下の出口に回り込んで外に出、主将の背中を追いかける。背中に女子陣からの恨みに満ちた視線を受け、ちりちりと焼けるような痛みを覚えたのは錯覚じゃない。
 あな恐ろしき、女の恨み。
「キャプテン!」
 スタスタと学校の中を、オレもあまり歩き回らない所為でよく知らない場所を通り抜けて主将は歩き続ける。その早足を小走りで追いかけ、一体何処へ行くのかと勘ぐっているといつの間にかオレ達は、部室の横を通り抜けてグラウンドへ出ていた。しかも野球部専用グラウンドだ。
「れ……?」
 食堂は学校の校舎を挟んでグラウンドほぼ反対側にあったのではなかっただろうか。だからオレはいつもは校舎を大回りしていたのに、その半分以下の時間でついてしまった事に驚きを隠せない。すると主将はグラウンドの鍵がかかっていない金網の扉を押し開け、そして振り返って笑った。
「近いだろう?」
「あ、はい」
 伊達にオレよりも二年長くこの学校に通っていない。抜け道や近道もお手の物なのだろう、その一端を垣間見た感じがしてオレは素直に頷く。だけれど悔しいかな、先輩に追いつく事ばかりを頭に置いていた所為で、具体的にどこをどう通ったかをまるで覚えていなかった。あとで沢松の奴でも連れて、探検してみよう。
 主将はひとしきり笑ったあと、弁当を抱えなおしてグラウンドの端に置かれているベンチに向かった。オレも追いかけ、先に座ったキャプテンの顔を見下ろす。
「座ったらどうだい?」
「あ、はい。でもその前に」
「なんだい?」
 ベンチの空きスペースに弁当を置き、右足を上にして脚を組む。主将のそのポーズでさえ様になっていて、一瞬見惚れそうになったオレは自分を叱咤してから口を開いた。
 そもそも、話って?
「それは、僕よりも君の方がよく分かっているんじゃないのかな」
「どういう意味ですか」
「さっき、僕に何か言いたそうな顔をしていたよ」
 にこりと微笑み、主将はそう言ってからオレにベンチへ座るように言う。オレは毒気を抜かれた思いで促されるままに座り、居心地悪げに身体を揺らした。横で主将が女の子から貰った弁当を広げるのを見る、そのどれもが手が込んでいて美味しそうだった。
「猿野君は、どれにする?」
「だってそれ、先輩が貰ったものじゃないですか」
 まさかオレまで食べる事になるとは思っておらず、驚きを隠さぬまま素直な意見を述べると彼は柔らかく微笑んで首を振った。
「そうだね。そして僕が貰ったものを僕がどうしようと、僕の勝手じゃないかな」
「もの凄い屁理屈に聞こえます、それ」
「そうかな?」
「そうですよ」
 と言い返しつつも、オレはちゃっかり一番ボリュームが満点そうな弁当箱を受け取ってしまっていた。ここに来て忘れ去られようとしていた空腹虫が一斉に輪唱を始めてくれ、そのやかましさに先輩が笑い止んでくれなかったからだ。
 申し訳なささに心打ちひしがれる中、空腹には耐えかねてオレはついに、先輩からお裾分けしてもらった弁当に箸を付けた。
 多分これも主将が食べてくれる事を期待してあの子達が一所懸命作ったのだろう。その努力を思うと、これをオレが食べてしまっていることがとても悪いことに思えてしまう。もしこれが犬飼から分けてもらった(あり得ない話だが)弁当だったら、遠慮なく食い散らかしただろうに。
「美味しいかい?」
「先輩が作ったんじゃないじゃないですか」
「それはそうだけどね」
 勢い良く食べているオレ(結局は本能には逆らえない)に問いかけ、先輩も箸を進める。あ、この卵焼きちゃんと出汁使ってあって美味い。
 結局七つあった弁当のうち、五つまでもをオレが食べてしまった。後半になってからは申し訳なさもどこかへすっ飛び、ただひたすら目の前の食材を片付ける事に必死になっていた。そして主将がオレを連れだした理由である話、とやらもすっかり抜け落ちていた。
「さて、猿野君」
「ふぁい?」
 口いっぱいに食べ物を詰め込んでいたオレは、箸を置いてご馳走様の黙礼を済ませた先輩に声をかけられそのままの格好で返事をしてしまった。もぎゅもぎゅ動く口で喋るのは行儀が悪いと散々言われてきたのに、未だに守る事が難しい。オレはとにかく落ち着きに欠ける子供だったから。
 ついてるよ、と先輩が笑う。伸ばされたその指がオレの頬を軽くつつき、そこに米粒が飛んでいた事を教えられて恥ずかしくなった。
「さっきは、すまなかったね」
「?」
 かろうじて口に入っていた半分を呑み込んだものの、まだかなりの量が残ってしまっているオレは返事が出来ず、ただ首を傾けさせるに留めた。主将がまた微笑む。
「あの子達から逃げるのに、君を言い訳にしたんだよ」
 とてもそうは思えなかったが、と言いかけて背中に受けた視線の痛さを思い出す。
「ああ、はぁ……」
 だが結果的にオレはこうやってただで昼食を腹一杯食べることが出来たわけで、礼を言うべきはむしろオレの方だろう。ようやく咀嚼し終えて嚥下しきった口でその旨を告げると、主将は懲りずにまた笑う。笑って、オレの頬についたままだったお弁当を取り去ってくれた。
 そういえば忘れていた、と恥ずかしさに俯いてしまう。そんなオレの頭上に、先輩の声が降り注がれる。
「けれどこうして、君と話しをする機会が作れたわけだから彼女たちには感謝しないといけないかもしれないね」
「どういう意味っスか」
「話しをね、してみたいと思っていたんだよ君とは」
 ちゃんと、ゆっくり時間をかけて、それから他人に茶々入れられない環境で。
「野球、楽しい?」
「はい!」
 綺麗に食べ終えた弁当箱を片付けた先輩が、膝の上で頬杖を付いてオレを見ている。反射的にオレは、問いかけに必要以上の大声で返事をしてしまっていた。弾みで腿の上に置いていた人様の弁当箱が傾き、添えていた箸がカラカラと転がり落ちてしまった。慌てて拾い上げたが、すっかり土に汚れてしまった。手で払い落とそうとするが、水で洗い流さない事には無理っぽい。
 オレは溜息をついた。反対に先輩はクスクスと声を零しながら笑っている。ひょっとして笑い上戸では無かろうか、と疑ってしまいたくなるくらいによく笑う。
 だけれど、オレは知っている。先輩は人前では微笑む事はあっても、ここまであからさまには笑わない。
「ああ、けれど少し困ったかな」
「何が、ですか」
 汚れてしまった箸を綺麗にする事を諦め、弁当箱の片付けに入ったオレの脇で先輩がぽつりと呟くのが聞こえた。顔を見上げると、苦笑しながら先輩は手伝うよ、と言ってくれる。ので、オレは素直に甘えて弁当箱を包んでいたナフキンごと先輩に渡した。
 慣れた手つきでそれを結んでいきながら先輩は言う。それはオレにとって、少し信じがたい事実だった。
「今まで、女の子からこういうのは受け取らないようにしてきたんだけど……」
「へ?」
 一瞬嘘を聞かされた思いでオレは間の抜けた声を出し、折角結び目も形良く出来上がろうとしていたナフキンを箱ごと落としてしまった。これも土で汚すわけにはいかず、大急ぎで拾い上げるがその間も、先輩は喋り続ける。
 曰く、今まで相手に期待を持たせないようにという思いから、今まで一度として受け取らないでいたのだという。オレとしては毎日、こんな旨い弁当をただで食えるなんて幸せだな、としか思わなかったのに、この人はまったくもう……。
 そして浮かんでくる次なる疑問は、では何故、今日に限って受け取ったのかというもの。
 オレが問いかけを言葉にする前に、先輩はオレの目を見つめて苦笑を浮かべた。言いたいことは分かっているよ、とでも伝えようとしているかのように。
 ナフキンを結び終え、先輩は組んでいた脚を交換した。
「言っただろう? 君と、話をする口実だったんだよ」
「話しなんか、殆どしてませんけど」
「だから、口実。今は出来なくても、今約束すれば明日話しをすることが出来るだろう?」
「あ」
 ぽん、と打ちかけた手は慌てて背中に回して塞いだ。でも、という単語が次の瞬間にオレの頭を過ぎって、それも先読みされてしまって先輩はやんわりとした口調を崩さずに続ける。
 オレと話しをしたいって、先輩、一体なんの話しを……?
「猿野君が、どれだけ野球の事を好きか、とか。巧くなる為にはどんな事をすれば良いのか、とか。嫌かな?」
「いいえ!!」
 力いっぱいに否定し、大袈裟なまでに首を横に何往復もさせる。今主将から提案された内容こそが、オレが主将に求めていた事に他ならなかったからだ。だからオレがこの申し出を、断れるはずがない。
「大歓迎っス!」
「それは良かった」
 じゃあ明日から、ここでお昼を食べながら話しをしようか。
 そう提案されて、オレは頷こうとした。頷こうとして、はたと思いとどまり身体の動きを止めた。
 主将が怪訝な表情を作る。
 昼休み、と言うことは。お昼ご飯を食べながら、と言うことは。
「キャプテンはまた、お弁当受け取ってから来るんですか……?」
 何故そんな事を訊いてしまったのだろう、後からいくら考えても結論のでない問いかけを口に出し、オレは咄嗟に唇を噛んでしまった。
 表現に困る顔をされ、失言だったとオレは拳を作る。
 だと言うのに、この人は。
「……だったら、君が作ってきてくれるかい?」
「は?」
 なにを言われたのか理解に苦しみ、オレはどこまでも間抜け面を晒して先輩を凝視する。主将はにこやかな微笑みを浮かべ、オレを見つめ返していた。
「僕は女の子から貰ってくる分でも構わないんだけれど、どうする?」
「作ります!」
 意気込んだ大声がグラウンドに響き渡る。そしてその声を掻き消すように、昼休みの終わりと午後の始業を伝える予鈴が校内に木霊した。
 主将は片付けられた弁当箱を抱えベンチから立ち上がる。オレも続いて立って荷物を持とうと手を伸ばしたが、それは断られてしまった。これらを渡してくれた子の顔を知っているのは主将だけであり、オレが持っていっても返却できないから、というのがその理由。
 言いくるめられた格好でオレは、放課後まで訪れることのないだろうグラウンドを後にした。
 夕方、本日も厳しい練習を終えて部室に戻る道すがら。
「明日、楽しみにしているよ」
 そう主将に言われて肩を叩かれ、子津が不思議そうな顔をするのを見て。更に笑いを堪えているらしい主将の背中を見送ってから、オレは。
 オレは昼に、とんでもない事を主将と約束してしまった事にようやく気付いた。
「子津、お前料理できるか!?」
「は? え、どうしたんっスか、いきなり……」
「しまった~~! すっかり忘れてたー!!」
 わけも分からずに困惑する子津その他野球部員を置き去りに、オレは大急ぎで着替えて部室を飛び出した。
「モンキーベイベ~、どうしたんDa?」
「さあ、どうしたんだろうね?」
 部室で虎鉄先輩が首を捻る横で、牛尾主将がこれでもかと言わんばかりに楽しげに笑んでいた事など、オレにが知るはずはない。
 その夜、オレは沢松を巻き込んで台所を戦場跡にしてしまい、母親に殺されかけた。