柔らかな盾

 その日、長かった戦いが一応の決着を見て大勢の捕虜が一本のロープに連なられた。
 夕暮れの空が地上に長い影を落とす中、嫌に静かな行列が西への道を進む中で君はやはり静かに行軍を見守っていた。
 ふと、彼の顔を知っている捕虜がいたらしく。
 列の進行を乱して立ち止まる兵士が居た。それは年老いていて、長すぎた戦いの所為かかなりやつれていた。頬削げた顔には無精髭が生え、瞳は落ち窪んでいたが光は失われていなかった。
「……」
 その老兵は君の前に立ち止まった。列を指揮していた自分の兵士が慌てて駆け寄ってきて早く行け、と老兵を殴る。
 その瞬間にだけ、君は痛そうな……敢えて言うなら、そう、物憂げな哀しそうな瞳をして光景を見守っていた。しかし言葉を放つことなく、やはり静かなまま兵士に急かされて歩き出す老兵を白い軍馬の上から見下ろしていた。
 あるいは、老兵にはそれが高慢な姿に映ったのかも知れない。
 無言の列は無情なまでに静かに、長い影を荒野に落として進む。まるで死人の群れだと心の中で嘲笑うが、表情には表れなかった。
 僕はもう一度君を見た。
 その瞳はどこを見つめているのかも分からないほど遠くを見据えていた。
 老兵は兵士に急かされながらも、なお君を睨んでいた。全身から放たれるオーラはどす黒く、今彼の身が自由でその利き手に武器が握られていたとしたら君を真っ直ぐに、迷い無く襲っていたことだろう。たとえ自身の命を抛ってでも、その剣先が君に届くことなく阻まれることを承知の上でそれでもきっと、あの男は君の命を奪いに行ったはずだ。
 その行為にどれ程の意味があるのかは分からない。
 そして、男の行動に君がどんな反応を返すのかも。
 きっと、君は逃げないだろう。惑うことなく、恐らくは真正面から男の凶刃を甘んじて受け入れようとするだろう。
 その刃が自分に届く前に、彼を取り巻く信頼のおける戦友によって阻止される事を確信しているから、ではない。
 彼は本気で、心の底から、老兵の刃を受け止めるだろう。
 逃げたところで、防いだところで、老兵の憎悪を取り払うことが出来ないことを知っているからだ。
 バカだ、と笑おうとした。
 しかし表情は変わらなかった。
「…………」
 無表情な仏頂面だと、人は言う。だが、そうでなければやっていられない世の中なのだ、今は。
 争い事が充満して、どこもかしこも血に飢えた空気が支配している。空の闇は世界を包み込む漆黒だ、それがなにもかもを狂わせている。
「…………ルック……?」
 いくらか自嘲げな表情を作った僕を気遣うように、君は小首を傾げて馬を寄せてきた。
 先程までの、哀しげでそれでいて無機質な何も見ていないような瞳とは違う、充分に年相応の子供らしさを残した瞳だ。
 そして、それに安心している自分がここに居る。
「どうか、した?」
 心配そうな声を、僕は嗤う。そうすることしか出来なかった。
 遠くを見ていた瞳、そこに宿るのは果て無き争乱の行く末を憂う心か、それとも終わりのない戦いに殉じていく仲間と、罪なき人々と大切な家族、そして自分自身を案じる感情か。
 どちらにせよ、君はきっと、多分。
 間違いなく。
 自分を棄ててでも他者を守ろうとするだろう。
 その愚かしさ、その強さ。
「どうもしないよ」
 冷たく言い放つ、それこそ取り付く島のないくらいに。
 僕の返答を聞いて君は苦笑し、思い過ごしなら良いんだ、と弁解するように小さく頭を下げて両手を合わせてきた。それから、御免、と小さく呟く。
 なにを謝る必要があるのだろう。心配をさせてしまうような表情をしていたのは自分で、それを君に見抜かれたのも僕自身だ。君の過失はなにひとつとして、存在しないのに。
 そんな風に自分よりも誰か、を優先させる君は。
 まるで。
 ……そう、まるで。
「柔らかな盾だな」
 ぶっきらぼうに、それこそ藪から棒に、僕は呟いた。
 聞きそびれたらしい君は、「?」という顔をして僕を見上げてくる。最も馬上にあるため、互いの視線はさほど高さは変わらなかったのだけれど。
 それでも君はどこか、いつも、人を見上げるような視線を使うからそれが癖になってしまっているようだった。リーダーなのだから止めた方が良いと、何度か注意したはずだけれど一向に聞き入れられぬままに、今に至っている。 
 そういう点にしてみても、君はどこまでもリーダーらしからぬ存在だった。
「……なに?」
 恐る恐る尋ね返してくる表情はあどけない。今の彼の、この表情だけを見せられた人間は果たして彼こそが、天下に轟くラストエデン軍の首魁だと信じられるのだろうか。
 否、だ。
 眉間に指をやって僕は呟く、心の中で。
「なんでもないよ」
「でも、今盾って……」
 それは自分の右手に宿る、この紋章のことを指しているのだろうか。不安を覚えてしまったらしい君が己の右手をさすりながら尚も問いかけてくる。僕は首を振るだけで答えた。
 夕暮れが闇色に紛れて霞んでいく。東の空は薄暗く、天頂を見上げれば一番星に二番星が控えめな光を明滅させていた。
 地獄の死者の行列紛いな列はまだ止まらない、生きているくせに死んだ気分で居るハイランドの兵士達が蟻の列の如く、進んでいく。眺めやって、僕はそっと重い息を吐き出した。
 彼を囲む兵士達は屈強で、ラストエデン軍でも主力を成している。その彼らが列を見つめる瞳も、どことなく物悲しく愁いに満ちている。
 この先どうなるか分からない未来への漠然とした不安に包まれているのだ。明日はこの行列に並ぶのが自分たちかも知れないと、そう思っているのだろう。
 抵抗軍とハイランドの攻防は一進一退を極めており、どちらが勝っても負けても可笑しくない状況に変化はない。今はかろうじて抵抗軍が僅かに勝っているけれど、それも時間の問題だった。
 いつ逆転されてもおかしくない状況。皆、切羽詰まり緊張している。
 なのに、君が笑うから。大丈夫だと、笑うから。
 不思議だと思う。君が言うからきっとそうなのだと、根拠のない自信が周囲を包み込んでみんなを安心させ、勇気づけている。
 だから、だろう。
 随分と懐かしいものを思い出した。
「柔らかい、盾」
「……柔らかい盾ぇ?」
 怪訝な顔をして君が聞き返してくる。けれど僕はもう、答える気にならなかった。
 だってばかばかしかったから。あんな昔話のお伽噺に君を照らし合わせて重ねて見ただなんて、口が裂けても言えるはずがない。
 変わらない仏頂面で僕は最後に首を傾げている君を見て、そして馬の首を返した。行軍が進む方向へ、ゆっくりと馬を進ませる。
「ルック、どういう意味それ」
 背中で声を受け止めるけれど、答える義理は僕にないから無言を決めて貫き通す。
 君は困って、自分の回りを囲んでいる兵士達を見回したけれど、そのうちの誰ひとりとして君の質問に答えられる人物は居なかった。

柔らかな盾

「なに、それ?」
 ナナミは質問を繰り出した義弟に向かって、思い切り眉根を寄せた顔で聞き返した。
「あ、うん。知らないんだったら良いんだ」
 逆に問い返されてしまってセレンは答えに困り、慌てて両手を首を一緒に振って誤魔化す。けれどそんな稚拙な方法が長年一緒に過ごしてきたこの義姉に通じるはずがない。
「なによ~、おねえちゃんに言えないこと~?」
 笑顔だけれど迫力満点な顔で凄まれて迫られて、セレンの頭には巨大な冷や汗マークが浮かび上がっていた。もっとも、ナナミは意外なことに呆気なく彼から離れ、そして不思議そうな顔はそのままに顎に人差し指をやって斜め上を向く。
 考え込むときの彼女の癖だ。視線が天井付近を当てもなくふらついて彷徨っている。
「柔らかい、盾かぁ」
 ルックに言われた、あの一言がどうしてもセレンの気に掛かっていた。そしてレイクウィンドゥ城に戻ってきてからとりあえず、手近なところから質問責めにしてみているのだけれど。
 芳しい回答は得られていない。
 ビクトールやフリックに言わせれば、柔らかい盾など戦闘などには何の役にも立たないからとどのつまり、“役立たず”という意味ではないかと言うし。シュウはまったく相手にしてくれなくてアップルも思い当たるものはないと言い、ナナミに至っては逆切れに近い対応を見せてくれた。
 自室の、柔らかでふかふかのベッドに腰を下ろしてセレンも一緒になって天井を見上げる。
 白く、真新しい。改築工事がようやく終わったばかりの城内は所々機材が山積みされていたけれど掃除が終わった場所は、とても綺麗で居心地が良かった。良すぎて逆に、此処にいて汚してしまったらどうしようと思うくらいに。
 味方になってくれる人や、強力を申し出てくれる人たちが増えて。それに、戦闘で捕虜にした人たちを収容しておく場所も確保する必要があり、城内は慌ただしく増改築工事が繰り返されている。今も、窓際で耳を澄ませば蚤の音風に乗って上階のこの部屋まで聞こえてくるほどに。
「柔らかな盾……」
「ねぇ、悩むんだったらいっそ、リッチモンドさんに調べて貰ったら?」
 諄いくらいに何度も呟くセレンに、ナナミは妙案を得たとばかりに手を打って、言った。途端セレンも顔をばっとナナミに向けて、忘れていた事を思い出したように間の抜けた顔をして頷いた。
「そっかぁ……」
 この城には何でも頼めば調べてくれる、優秀な探偵が居たではないか。
 善は急げ。ベッドから飛び跳ねて立ち上がったセレンはナナミの次の句を待たずに駆け出した。
「あっ、待ってよー!」
 おねえちゃんをおいていくとはどういう了見だこの愚弟め! ぎゃんぎゃんとひとしきり叫んで怒りを表現し、ナナミも続いて部屋を飛び出す。
 途中、降りた階段の中腹からいつものように石版の前に立つ仏頂面を見つけたけれど、言葉は交わさなかった。
 謎かけのような言葉の意味を解くまでは側にも寄るものか、と心に誓ってセレンはリッチモンドが居る倉庫の前へ急いだ。

「柔らかい盾、ですか?」
 リッチモンドによって得た情報の末、辿り着いた先の少年はセレンの二の句に出た質問に、可愛らしい顔を顰めた。
 眉根を寄せ、口元に手をやりしばし考え込む。斜めに頭に被せられたベレー帽にぶら下がる房が微かに揺れた。リズミカルに、首が揺れ動いている。
「それは……ひょっとして、“優しい盾”の事でしょうか」
 やや自信なさげに少年は控えめな声で呟いた。そして上目遣いに目上の存在であるセレンを伺う。もっとも、“柔らかい”が“優しい”に変わっただけの言葉の意味を彼が掴みきれるはずがない。傍らのナナミが、助け船を出すつもりで問いかける。
「えっと、それってどういうお話しなの?」
 城の中に作られた、空中庭園の片隅。一見すると女の子かと見まごうような容貌をしている少年を取り囲むのは、セレンとナナミだ。
 音職人の少年は何故そんな事を聞くのかと疑問符を頭の上に浮かべていたが、彼らの真剣な表情にやがて溜息をそっと吐き出し、近くにあるテーブルセットへとふたりを導いた。そして、大した話ではないと前置きをしてから語り始める。
 音職人らしく、澄み渡った綺麗な声が風に乗って流れていく。
「ハルモニアに伝わる、古い伝承のひとつです。セレンさんが持っている輝く盾の紋章の謂われは知っていますよね……?」
「うん」
 コーネルの問いかけに、セレンはグローブに隠された自分の右手を見て頷いた。
 盾と剣は互いに己の強さを誇り、どちらが最も強いかを争って両者共に砕け散ってしまった話だ。どちらもが愚かであり、哀しい。
 けれど、とコーネルはひとつ咳払いをした。それから、ゆっくりとセレンの顔を見つめる。
「別の、ええ別の……多分、もとは違う話だと思うんです。どこの誰が言い出したかも分からない、今では笑い話にもされてしまっている程に些細な話なのですが」
 しかし僕はこの話が好きです、とコーネルは笑った。
「優しい盾、という昔話があるんです」
 昔、とても名の知れた鍛冶屋が居た。その鍛冶屋が鍛えた剣は如何なる鎧も砕き、矛はどんなに頑丈な盾も貫いた。鍛冶屋には注文が相次ぎ、戦争は途絶えることを知らなかった。
 ある日、鍛冶屋は傷ついた兵士を見た。彼は鍛冶屋の武器を持っていた。けれど彼は傷つき、倒れ、朽ち果てた。
 鍛冶屋は思った、どんなに強い武器を鍛え上げたとしても敵の武器から身を守る鎧が無ければ意味がない。あらゆる攻撃を防ぎきる事の出来る防具を作らなければならない、と。
 そして鍛冶屋は盾を鍛えた。あらゆる攻撃から身を守る事の出来る、最強の盾だ。しかしその盾も、彼が昔鍛え上げた剣の前では無力に砕け散った。盾は、盾の意味を持たなかった。
 鍛冶屋は悔やんだ、自分がどんな鎧も砕きどんな盾も貫く矛を鍛え上げなければたくさんの人が死なずに済んだかも知れないのに、と。
 けれど鍛冶屋は懸命に盾を鍛えようとした。強く、頑丈で、どんな攻撃も弾き返してしまえるような盾を作ろうとした。
 しかしどんなに丈夫な盾を作ろうとしても、それは呆気なく砕けてしまう。固くすればするほど、盾は脆くなっていった。
 ある日、鍛冶屋はまた別の光景を見た。
 屋根から間違って落ちてしまった子供が、柔らかな木立と下草に包まれてまったく怪我をすることなく無事に難を逃れる光景を。
 その瞬間、鍛冶屋は気づいた。
 柔らかな盾を作ろう、そうすればあらゆる攻撃を包み込み吸収して、誰も傷つかず傷つけることのない盾を作ることが出来ると。
 そして、鍛冶屋はついにあらゆる攻撃から身を守ってくれる、優しい盾を作ることに成功したのだった。
「でも、そんな盾は役に立たないと言って、鍛冶屋は時の王に処刑されてしまうんですけれどね」
 哀しげに、コーネルは最後にそう付け足して笑った。
「……へぇ……」
 感心したように、ナナミが感嘆の声を出して椅子の背もたれに深く身を預けた。セレンも、そこまではしなかったものの彼女と同じ気持ちで居た。
 優しい盾――柔らかな、盾。
 役立たずだけれど、誰も傷つけず誰も傷つかない為に生み出された、優しい盾の物語。
「なんか、哀しいね」
 鍛冶屋のした事は無駄だったのだろうか、意味のないことだったのだろうか。
 違う、と思いたくてセレンは真っ青に澄み渡っている上空の空を見上げた。白い雲が風によって西に流れていく。淀みなく、無言のままに静かに。
「哀しいけど、でも」
 口元に手をやって、言葉を探しながらナナミが呟く。
「でも、なんだろう。……すごく、あったかい」
「僕もそう思います」
 ハルモニアでも、もう忘れ去られたに等しい物語だという。ただコーネルはこんな昔語りが好きで、図書館でたまたま見つけた本を読んで以来気に入っていたのだという。
「なんだか、セレンさんに被りますよね」
 そういえば、と言い足して彼はまた笑った、屈託無く。ナナミも同調して大きく頷き、ルックが言いたかったのってこういうことなんじゃないかな、と言った。
「そうなのかな?」
「僕もそう思いますよ」
 あまり知られていないことだけれど、ルックはハルモニアの出身だ。この“優しい盾”の話を知っていても可笑しくない。古い話だけれど、けれど争いを拒む人々の間では今も語り継がれている隠喩だ。
 反発するだけでは傷つくだけだ、どちらかが優しく包み込む必要がある事を教えてくれる。だから、鍛冶屋を処刑した王の方が愚かなのかも知れない。けれど王も自分の国と領土と、国民を守るために闘うことを選んだのだとしたらそれは……哀しい矛盾だ。
「ねぇ、ナナミ」
 照れくさそうに鼻を擦って、セレンは顔を向けた。なに? と彼女が小首を傾げる。
 小さく、笑ってみた。
「ぼく、なれるかな」
 “優しい盾”に。
「なれるよ。ううん、もうなってる」
 君が笑っているから、みんなが大丈夫だと思えるんだ。君が大丈夫だと思うから、みんなも根拠が無くてもその自信を信じられる。真っ直ぐに前を見つめるその瞳が澱むことのない限り、自分たちは前に進み続けられるのだと、安心できる。
 君が居てくれるから。
 だから、君は“柔らかな”盾のようにみんなを包み込んでいる。
「ね?」
 お日様のように眩しいナナミの笑顔に、セレンは思い切り頷いた。