風のコトバ

 その子を初めて見たのは、夕暮れ間近の庭園だった。
 勉強が一区切りついた僕が庭に出ると、ちょうど門から馬車が入ってくるところだった。正面玄関の前に横付けされた馬車から、半ば強引に引っ張り出された少年の横顔が一瞬だけ見えて、最初彼が何者で一体どういう経緯で青の派閥などと言う外界からはある意味隔離された場所に連れてこられたのか、いたく疑問に思ったことを今も鮮明に覚えている。
 それほどに、その少年は召喚師という職業には不釣り合いな顔をしていたから。
 夜、夕食を前にして呼び出しを受けた僕を待っていたのが派閥の長老格に当たる人物と彼らに囲まれたあの少年だったときは、最初に彼を庭で見たときと同じ程の驚きを抱えた。
 クレスメント家の末裔が見付かったかも知れない、その知らせは前から受けていた。だがこの少年がその人物であるとは、何故かあの時予想もしなかったのだ。
 迂闊と言えば迂闊な事だったが、真正面から彼を見ていると彼が間違いなく、クレスメントの血を継ぐ存在であると己の中にある遺伝された記憶が確信を持って告げてきた。
 どこか怯えたような表情を浮かべていた彼は、今まで散々質問や詰問を繰り返していた大人ばかりの中からようやく年の近い僕を見出せたことに少しだけ安堵の顔を作った。
 クレスメント家と僕との関わり合い等も考慮されて、彼は僕の養父であり後見人であるラウル師範に預けられる事が決定。僕はその時点で彼の兄弟子となり、召喚術以外のあらゆる事を教育する役目、そしてクレスメントの知識が再び暴走を繰り返さない為の見張り役となったのだ。

「ここが、君の部屋だ」
 新米見習い召喚師となった彼を、彼に宛われた部屋に連れて行くのも僕の仕事だった。
 自己紹介もそこそこに長老達の前から辞した僕は彼を連れ、丁度空き部屋になったばかりの一室の扉を開ける。そこは僕の部屋からふたつほど間を置いた部屋で、前の使用者はつい先日、召喚術試験に合格して部屋を出ていったばかりだ。
 綺麗に片付けられ、掃除された部屋の空気は僅かに湿っている。窓をずっと閉めていた所為だろうと考え、僕は先に室内に足を踏み入れると向かい側の窓へ歩み寄った。カギを外し押し開くと、すっかり外は日も沈みきっていて闇に包まれていた。
 太陽光から解放されて熱を失った風が微かながら吹き込んできて、僕の前髪を揺らす。
「今日はもう遅いから、明日にでも建物内を案内しよう。必要なものは一通り揃えて置いたが足りないものがあれば……マグナ?」
 ゆっくりと振り返り、もう少し眺めていたいと思った夜闇の光景に背を向けた僕が見たのは、部屋の入り口の向こうで立ちつくしている少年だった。
 いや、少年というには少し語弊があるような気がする。無論幼児、と呼べる年齢はとうに通り越しているはずだ。だが、いったい今までどんな生活を送っていたのか疑問に感じてしまうほど、彼はやせ細っていて小さかった。
 孤児だとは、聞いた。街中で偶然手に触れてしまったサモナイト石が暴走して、街を破壊したという事も。
 正確な年齢は分からない、だが見た目ほど幼いわけでもないことは口答での対応で分かっている。単に栄養が行き届いていないだけなのだろう、全身に。それはつまり、彼が喰うに困るような生活で今までをひとり過ごしてきたことになる。
 哀れだとは、思った。
 だが同情はしない、彼よりもずっと不幸な境遇の人間は数多の数存在している。彼は召喚術という能力を持って生まれただけでも、まだ幾らかは幸福なのだから。
「あ、の……」
 名前を呼ばれたことに咄嗟に顔を上げたマグナだったが、直ぐに口ごもってまた下を向く。
「おれ、これから……どうなるのかな……」
 不安そうに上目遣いになって彼は尋ねる。両手で自分の身体を抱きしめている事は、そのまま彼の怯えを表現しているようだった。自分だけが自分を守る唯一の存在だと言い聞かせているかのように。
「君はこれから、青の派閥の一員として召喚術を学び取得する義務がある。説明を聞いていなかったわけではあるまい」
 自分も随分と年齢不相応な物言いをするものだと思う、だがこれもまた、自分で自分を守る手段として開発したものだから早々簡単に崩せない。僕にとっては、青の派閥は庇護者ではあっても心を許しあえる仲間ではない。
「う、ん……」
 聞いていたのかいなかったのか、どっちだと言いたくなる返事をされて僕は頭を掻いた。嫌いかも知れない、この子が。そう思った。
「明日から早速で悪いが召喚術の基礎に入る。テキストはそこの棚に一通り用意して置いたから、せめて最初の一ページは目を通して置いてくれ。あと、紛失しないように自分の名前を書いておく事を推奨する」
 正直な話、派閥はあまり彼の存在を歓迎しているようには見えなかった。
 態度が露骨であり、扱い方にも乱暴な部分が多くあった。ラウル師範が口を挟んでいなければ、彼の待遇はもっと酷いものになっていたに違いない。
 この先彼には様々な困難が待ち受けるだろう、閉鎖主義の傾向が強い派閥内部の人間は中心に近付くにつれてより強固に、外部からの来客を拒む。彼がクレスメント家の末裔である事を疑う人間もまだいるのだ、彼の味方は決して多くない。
 手招きをして何時までも廊下に立っている彼を部屋に引き込むと、僕は素早く扉を閉じた。パタン、という音を不安そうに聞いて、彼は初めて足を踏み入れるこれから長い間世話になるであろう室内を見回した。
 天井はさほど高くない、家具はベッドと机、そして据え付けの棚程度だ。その棚の半分ほどを、基礎学のテキストが占領している。召喚術だけでなく、政治学や歴史などのテキストも混じっているのは、召喚術師が大きく国家という枠組みに組み込まれている事を照明しているようなものだ。
 表向き、青の派閥は政治との直接取引は禁じられているけれど……。
「ノートや筆記用具類はこの引き出し。着替え等は追々支給されるだろうから……」
「あ、あの」
 部屋の説明を続けようとしていた僕の言葉を遮り、マグナは胸の前で手を居心地悪そうに弄った。言いかけた言葉は、だが僕の意識が彼へと向き視線を投げかけられた事で中断させられてしまう。
「……なんだ?」
 言葉遣いや語気に刺があることを、僕は自覚していた。だがどうにも、止められそうにない。
 眼鏡の奧から冷たい視線を向けると、彼は小さな肩を揺らして視線を外してしまった。そのまま弄っていた手を口持ちにやり、言うべきか言わざるべきかを懸命に考え込んでいるらしい。泳いだままの視線が再び僕の元へ戻ってくるのに、かなりの時間が掛かった。
「あの……おれ、その……」
 そこまで言い渋ることなのだろうか、さっさと言えばいいのにと時間の無駄を考えて溜息をつきかけた僕は。
 次に彼が告げた言葉にものの見事に、言葉を失った。
「おれ、字……書けない」
「……なんだって?」
「だから! おれ、字も書けないし読めないって言ったの!」
 思わず聞き返してしまった僕に、彼は怒鳴り声で返してきた。間近で聞いてしまった大声に耳がキーンとなって、片耳を手で押さえ込んだ僕は目を丸くしながら彼をマジマジと見つめてしまう。
 孤児だとは、確かに聞いている。
 だが、この可能性は考えていなかった。
 どうも迂闊なことが連続してしまって、頭が冷静に回らない。
「読めない……まったく?」
「数字とか、なら……」
 簡単で生活に必要不可欠な単語と簡単な足し算引き算と言った計算だけなら、なんとか出来るのだと彼は口を尖らせながら言った。誰も教えてくれる人は居なかったのだと、最後に小声で付け足して。
 溜息しか出ない。
「そう、分かった」
 いや、分かっていなかった。事の重大さというよりも、大変さに。
 立ち眩みを覚えそうになる頭を押さえ、僕はもう一度マグナを見た。心細そうな顔をして僕を見上げている幼子は、実際の年齢よりもずっと頼りなく小さく映る。
 突然の出来事で住み慣れた街を破壊してしまい、追われるようにして街を離れて捕らわれたように青の派閥へと連れてこられた。そして自分が置かれている状況もロクに理解できぬまま、彼は今此処に立っている。
 知り合いも居ない派閥の中で、恐らく彼が一番存在を近いと感じるのは僕なのだろう。それは言い換えれば、彼のことを分かってやれる存在も僕しかいないという事に繋がる。
「自分の名前は書けるのか」
「…………」
 マグナは黙って首を振った。
 教えてくれる存在がなかったから、知ろうともしなかったのだろう。聞けば鉛筆を握ったことも数える程もないという。
「おいで」
 再び手招きをして机の下から椅子を引きだし、僕は彼をその上に座らせた。引き出しを開け、中から真新しいノートとペンを取り出す。
 表紙を捲り、机の上に広げた僕は握ったペンで一番上の欄に彼の名前を出来るだけ大きな字で書き込んだ。それを、彼の前に示す。
「これが、君の名前だ」
 “マグナ”と。たった三つの文字が記されたノートを見せられても、彼はピンとこないのか怪訝な表情のままノートと僕の顔を交互に見つめている。
「これ、書けないと駄目なのか?」
 何処か面倒臭そうな声を出して彼は言う。
「当たり前だろう。字が読めなければ本も読めないし、聞いたことを書き記すことも出来ない」
「けどさ、今までそんなことしなくても平気だった」
「これまでと、これからの生活は違う。君はまだ、自分の置かれた状況がどんなものなのか理解していないみたいだな」
「……分かってるさ。もうあの街には帰れないってことくらい」
 自分が壊してしまった街、そこに住む人たちの生活を壊してしまった自分はもうあそこに居る資格がない。
 彼は彼なりに、懸命に考えているのだろうか。
 小さな呻り声を上げながら、マグナはしばらくノート上の文字を睨んでいた。そして徐に僕が置いたペンを取ると、僕の字を真似して書き取る練習を始めた。
 確かにロクにペンを持ったことがないと言い張るだけのことはあり、彼のペンを握る手は不器用なものだった。
「そうじゃない、これは、こう……こうやって持つんだ」
 立ち位置を椅子の後ろに移動させ、僕は彼の手を取るとペンを正しく持ち替えさせる。途端、持ちにくいと口に出して文句を言い始めた彼だったが、この方が書きやすいのだと言いくるめるとむっとしたままだが用紙にペンを滑らせた。
「……あ、ホントかも」
 試しに最初の一文字“ま”を書いてみて、彼が感嘆の声を上げた。まだまだ不器用な崩れた形だが、かろうじて読めないこともない文字に思わず笑いそうになる。
 マグナは続いて“ぐ”と“な”の字を模写すべく机にかじり付いた。その背を丸める姿勢に眉根を寄せた僕は、彼の首根っこを掴み後ろに引っ張った。
「なにすんだよ!」
「猫背になっている。背筋は伸ばしておけ、姿勢が悪い」
 ぺしっ、と背中を叩くと肉が殆ど無い身体から出っ張った背骨が手に痛かった。
「ちぇー……」
 舌を出して不満を露わにしながらも、抵抗は無駄だと悟ったらしい彼は今度こそ背中をピンと立てたままやりづらそうにノートに筆を走らせていく。走らせる、と言う表現には不釣り合いな非常にゆっくりとした書き方ではあったけれど。
 真剣な表情をしてノートとにらめっこをしている彼を見ていると、案外真面目な所があるのだな、と感心した。あとになってこれが大きな間違いであったことを実感することになるのだが、それはまた別の話。
「できたっ!」
 そう叫んでノートを目の前高くに掲げたマグナが、椅子の上から後ろの僕を振り返る。自慢げにノート上のミミズが這ったような自分で書いた字を見せてくる姿に、表情がつい綻んでしまった。
「簡単かんたん!」
「もっと早く、綺麗な字で書けるようになるまでは合格とは言えないな」
「えー?」
「そんな字で書類を提出しても、誰も読めなくて突き返されるのがオチだと僕は思う」
 そう告げて僕は彼の頭を軽く二度、叩いた。
「夕食を貰ってこよう。本来は食堂で決まった時間に自分で取りに行かなければならないんだが、今日は仕方あるまい」
 夕方からの呼び出しに応じていたため、僕自身も夕食を取り損ねていた。食堂は閉まっているだろうが、恐らく議会の方から通達が行っているだろうしふたり分の食事程度なら残っているはずだ。
 踵を返し、扉へと向かった僕の頬を冷たい夜風が撫でていく。
「あ、ねぇ」
「ネスティ、だ」
 自己紹介は既にしたはずなのだが、と少しだけ不機嫌になって僕は僕を呼び止めたマグナを振り返る。その返した視線を覆い尽くすようにして、彼は僕の目の前に広げたノートを突きつけてきた。
「名前、書いて」
「君の?」
「おれのは、これでしょーが」
 反射的に聞き返した僕を笑って、マグナは次のページを捲った手で僕にペンを差し出した。
「名前、えっと……ネスティの!」
「あ、ああ……僕の名前か」
 ようやく会話の流れをつかみ取れて、僕はずり落ちかけた眼鏡を正すとペンを受け取った。一歩半進んでいた距離を戻り、机に置かれたノートの新しいページに僕の名前を書き記す。
「ね、す……てぃ……これが?」
「そう、これで“ネスティ”。僕の名前だ」
 文字ひとつひとつに発音を合わせてペンをずらして示してやると、彼は興味津々という顔でノートを見つめ、先程彼の名前を書いたページと見比べ始めた。
「同じ形じゃないんだ」
「発音の数だけ、字は形を持っている」
「うへー……なんかやる前からやる気なくなりそー……」
「覚えて貰うぞ、何が何でも」
「ちぇー」
 もう一度頭を小突くと、大して力も入れていないのに彼は机に突っ伏してしまった。見通しが甘かったのか、しきりに悔しがっている。何を悔しがっているのかは正直なところ、理解できなかったけれど。
 彼が机の上でマグロになっているのに肩を竦めると、僕は今度こそ夕食を貰い受けに部屋を出た。今度は、制止する言葉はなかった。

 食堂へ向かう道すがらで、困ったことにラウル師範に捕まってしまった。
 師範も色々と彼のことを気に掛けているのだろう、どんな具合かとしきりに聞きたがって、僕も報告しなければならないだろう事はあったからつい長話になってしまった。
 マグナが読み書きの出来ない子供であったことは師範も知らなかったことのようで、計画していた彼の召喚術師へのステップアップも時間が掛かりそうだというのが、僕と師範の出した結論だった。
 その結論に導かれるまでに三十分は軽く掛かってしまったのだけれど。
 夕食を取りに行く途中だったと言うことを話の途中で思い出して、残りの報告は後日改めてと告げ僕はかなり遅くなってしまった食事を両手に、マグナの部屋へと急いだ。
 盆を落とさないように注意しながら、きっちりと閉められた扉を開ける。視界に入った彼はまだ机に向かったままで、あれ程注意したというのに猫背になっていた。
「机に向かう時は、きちんと背筋を伸ばして……ん?」
 やれやれ、と盆をサイドボードに置いた僕は彼に注意を促そうとした。が、どうも様子が可笑しいことに気付き首を捻る。
 彼は猫背どころか、両腕を枕にして机に突っ伏し、眠っていたのだ。
「ん~~~~……」
 肩を軽く揺すってやると、不機嫌そうな呻き声を上げるだけで目を覚ます気配はない。
「疲れていたんだな」
 無理もない。ずっと馬車に揺られて、これからの不安に胸が押しつぶされそうになるのをひとりきりで堪えて。着いた先では大人に囲まれて見下され、自分の意見を述べる間もなく勝手に処遇を決定されてしまったのだ。
 まだ幼い彼には酷な事でしかなかっただろう。それなのに、疲れている素振りを少しも見せようとしなかった。少しでも気を緩めたら一気に足許が崩れてしまう事を幼いながら空気で読みとっていたのだろう、気丈に振る舞って。
「明日は休暇にしてもらうように頼んでおくか」
 顔に掛かる前髪を梳き上げてやり、僕は呟くと彼を椅子から抱き上げた。見た目以上の小ささと軽さに、驚く。
「んぅ、ん……」
 触れた体温が心地よいのか、マグナが自然と顔をすり寄らせてきてその猫のような仕草に自然と笑みがこぼれた。
 彼をベッドに寝かせると、摘まれた上着が引っ張られた。起きているのかと思ったがどうもそうではないらしく、寝ぼけているだけらしい。無理に解いて目を覚まさせるのもどうかと思い悩み、結局自分もベッドサイドに腰を下ろす。
「マグナ、か……」
 黒いクセのある髪を撫でてやると、くすぐったいのか顔を揺らして彼は逃げていく。楽しい夢でも見ているのか、彼はずっと笑っていた。
 その寝顔を見ながら、僕も少しだけ幸せな気持ちになれた気がした。