陽景

 黄金の光を見つけたんだ、そこで。
 夕暮れ、赤く染まりつつある西の空と地平線に沈もうとしている巨大な太陽を眺めながら、彼は言った。
 絡まない視線の先、彼が見つめる向こう側の世界がどんなものであるのか、その時のぼくはまるで想像がつかず、ただ曖昧に受け答えをしながら時折相槌を打つだけしか出来なかった。それでも君はよく、こうやって話をしてくれた。
 彼が見た景色を、人々を、国を、街を、村を、山を、海を、そして世界を。
 どう考えてもぼくを同年代であるはずの彼がそんな色々な場所を旅する事が出来るはずないと、最初は勝手な彼の想像の産物だろうとぼくはあまり相手にしなかった。
 だけれど。
 時に彼が屋敷に泊まりに来た夜、寝入る前の昔話代わりとして。
 時に、彼と釣りに出かけたとき魚がかかるまでの間の暇つぶしとして。
 時として、喧嘩をしたあとの仲直りとして背中合わせに。
 彼は本当に、ぼくに色々な話をしてくれた。
 光ははじめから黄金じゃないのか? と、彼の呟きにそう返したぼくに、君は少し困った顔をしながら笑って返した。
 そうかもしれない、でもそうじゃない光を見たんだ、と。
 わけが分からないよ、そう言い返して頬を膨らませたぼくに、君は「ゴメン」と小さく一度だけ謝罪の言葉を口にした。
 夕焼けは徐々に色を濃くし、東の空は天頂に近い部分から闇へ染まっていく。
 この時、ぼくの世界は高い城壁に囲まれたグレックミンスターの町並みとそれから、グレミオやパーンが必ずと言っていいほど付き添っていないと出かけていくことの出来ない近隣の村や町。そして、君と城壁を抜け出して走り回った帝都周辺の草原や、林や小さな森といった、そんな本当に狭い場所がすべてだった。
 君の見た、君が過ごしてきた永い時の中で君が見送っていった世界の大きさなどには到底及びもしない、自分が中心の子供の世界だった。
 黄金色をした、光。
 だけれど幼心にその言葉は強く印象に残っていて、それは具体的にどういうものだったのか、君がいい加減にしてくれと泣き言を言うくらいにぼくは問いつめた事を覚えている。
 いつ、どこで、どの時間帯に、どの方角で見たのか。そんな君が覚えていないよ、と悲鳴を上げたくなる事までとことん問いつめた。君は苦い顔をしながらも、必死に思い出そうと記憶を掘り起こしながら答えてくれた。
 ありがとうと、今なら言える。
 それはとても些細な事だったけれど、君が教えてくれた場所にどうしてもぼくは辿り着いてみたかったから。
 あの時、君が答えてくれて良かった。
 金色の光。太陽が照らす眩しいだけの光ではない、世界中を黄金に染める煌めく光を見たのだと、君は言った。
 それは夕暮れ時、そろそろ戻らないと夕食の席に間に合わなくなってしまうと急ぎ足で帰ろうとしていた、その途中。
 草原のただ中にぽつんと、一本だけ忘れ去られたようにして聳える木立があった。それは細い街道沿いにあって、近くには小さな井戸もあって旅人がグレックミンスターに入る直前の、小さな休憩所になっていた。
 ただその時間帯、通り過ぎる人は誰ひとりとしていなくて、一面若緑の草原に伸びる黒い影と、赤く染まって帝都の頭上を彩る西の空との対比とがやたらと印象深かった。
 シルエットのように浮かび上がる木立の陰影がはっきりと、今でも瞼の奧に焼き付いている。ぼくはその景色を、矢張り夕焼けに浮かび上がる君の背中とが合わさった一枚の風景画を見るような思いで見つめていた。
 君は気付かなかったかも知れないけれど、その時ぼくは感じたんだ。君がとても、遠い存在なんだって。
 君は本当に沢山の経験をしていて、ぼくの知らないことを色々と知っていた。魚が良く釣れるポイントの探し方、森の中での包囲を確認する方法、枯木で早く火を起こす方法、獣の狩り方……数え上げてもキリがないくらいに。
 たくさんの事をぼくは君から学んで、それからぼく自身も必死で勉強して学んでいった。強くあろうとして武術に励む以外にも、君に負けないなにかが欲しくて軍師としての戦術なんかも勉強した。さすがに料理はグレミオに任せていたから、そこに手を回そうとは思わなかったけれど。
 そういえば確か、君は野料理も得意だった。
 一体どんな生活を送っていたのか、想像を絶するものだったに違いない。それでも君は生き続けなければならなかったし、それ以上に生きたいと願う力は強かったのだろう。例えそれが、逃亡という二文字に彩られた道のりであったとしても。
 グローブの上から自分の右手をさすってみる。甲の中央に刻まれている紋章が、心に反応したらしく少しだけ熱を持ち、触れている左手の指先をほんのりと温めた。
 ああ、お前はまた魂を欲して蠢いているのか。
 どれだけの罪無き命を喰らえば、この空虚な存在は満たされるのだろう。ぼくの、この心はいつ満たされるのだろう。
 瞼を閉じる、思い浮かぶのはあの日の夕暮れ、そして君のことば。
 色々な話をしたね、それこそ眠る時間さえ惜しむ程に。気が付けば沈んだはずの太陽が東の空に頭を覗かせていて、二人して驚きながらそのまま頭まで毛布を被り、朝食が出来上がるのを待った日も数えきれない。結局その日一日は眠すぎてなにもする気が起きず、勉強も修行も全部放り出して逃げ出して、ふたりだけの秘密基地にしていた森の洞で昼寝をしたりもしたっけ。
 あの頃の事はきっと、絶対に忘れたりしない。
「テッド……」
 夕暮れの一枚絵、その中に佇む君の姿。何故か声をかけるのも憚られて、暫くぼくは君が君の方から振り返って声をかけてくれるのを待つしかなかった。だって君の背中があまりにも寂しそうで、ぼくの知らない君のように思えてならなかったから。
 そんな背中を見せる君を、ぼくは知らなかったから。
 その日のぼくはまだ今と比べると格段に幼くて、幼すぎるくらいで、ぼくの回りの世界はグレックミンスターとそれを取り囲むほんの僅かな空間がすべてだったから。ぼくの知る限りの人間の姿とは、勇敢で誇り有る父を代表として、グレミオやパーンや、ともかくそういったごくごく僅かな人々を眺めて、それが人間のすべてだと思いこんでいる節があった。
 だからだろうか、君は時々とても哀しそうな顔をしてぼくを見ながら言った。
『お前って、良い奴』
 その時はことば通りの意味としか捕らえる事が出来ず、バカにされているような気分になって言われる度にぼくは不機嫌になった。思えば、それが既に子供だった。
 君の事を何も知らなかったね、どこから来てどこへ向かおうとしていたのかも知らず、ぼくは君を引き留め続けた。
 それは苦痛だったかい? 今もしもう一度君に出逢えるのだとしたら、それを一番に聞きたい。
 ぼくは良い友人だったかい? 君にとって、ぼくの存在は救いになっていたのかい?
 いや、やっぱり良い。聞きたくない、答えを知るのが恐い。
 力無く弱々しく首を振って、握った手の平を解いていく。
「ぼっちゃ~~~ん」
 後方から、非情に情けない声を間延びさせたグレミオが小さく頭を覗かせた。首から上だけで背後を振り返ってその接近を確かめ、ぼくはずっと結んだままでいた唇を緩く解いた。
 もうへとへとで、今にも登ってきたばかりの急峻な坂道を転がって落ちていきそうな勢いのグレミオを確かめる。
 中華鍋を背負い、その上他にも調理器具や食材をいっぱいに詰め込んだリュックサックを抱えているわけだから、このきつい坂を登ってきているだけでも充分凄いだろう。かなり遅れてしまっているが、目の前に広がる一瞬の光景を見るにはなんとか間に合いそうだ。
 再び視線を戻し、目の前の光景に見入る。
 テッド、君が「黄金色の光」と表現したものをぼくもようやく、見つける事が出来たよ。
 右手に触れながら呟く。持ち上げて顔に寄せれば、微かなぬくもりがそこから伝わってくるようだった。
 この場所で、この季節の、この時間帯に、この方角でしか見ることの出来ないだろう世界がそこにある。
 君と出会って、ぼくの世界は格段に広がった。
 君と別れて、ぼくの世界は益々無尽蔵に広がり続けている。それはぼく自身にさえも量りする事の出来ない規模で膨らみ続け、今も膨張を止めようとしない。
 君がぼくに話して聞かせてくれた事を、ひとつひとつ思い出していこう。
 君が旅した場所、訪れた人々、通り過ぎた国、乗り越えた山、太陽を見送った海、朝を迎え入れた渓谷の輝き。
 そのすべてを、ぼくも手に入れてみたい。君に教えてもらった世界を、君が歩いた場所をぼくも歩いてみたい。
 少しでも君の心に近付くために、300年という気の遠くなるような時間を歩き続けた君の心に、ほんの僅かだけでも構わない、触れたいと思った。
 季節は初秋、暑かった夏が通り過ぎて気候も穏やかになり幾分過ごしやすくなって来た頃合い。
 時間は早朝、まだ星が天頂に瞬いている時間に出かけて歩き続けて辿り着いた。
 方角は東、太陽が昇る方角。
 場所はここ、眼前遙かな地平線までを一面埋め尽くす金色の小麦が穂を揺らす大陸随一の穀倉地帯を望む、まさにこの場所。急峻で険しい道無き道を抜けた先にある、峰高い岩山の頂。
 この場所で、朝日が昇る瞬間を見たと、君は言った。
 その時、自分以外の世界のすべてが黄金色の光に包まれて行くのを感じたと、君はそう告げた。
 君がそんな風に感じた場所に、今ぼくは立っている。
 目映いばかりの太陽が地平線を昇っていく、その光に照らされて闇に眠っていた麦の穂が一斉に目を覚まし、穏やかな風に揺られて金色を撒き散らす。空は一気に光を取り戻して闇を追い払い、次第に昇っていく太陽が世界を照らすその姿は。
 まさに、一面に広がる黄金色の光。
「ぼっちゃ~~~ん!!」
 唐突にグレミオの声が大きくなり、けれど長引いた余韻は次第に遠ざかっていく事に驚いた。慌てて振り返ると、さっきまではかなり大きく見えていた彼の姿が、今では豆粒のようになってしかもその上、段々と小さくなっていく。
 どうやら、足を滑らせたらしい。背中に重い荷物を背負っていた為、バランスを取り直そうにも後ろに引っ張られてしまったのだろう、通常の彼ならばやらない失態を見せてくれたグレミオに、呆れつつも苦笑が禁じ得なかった。
「グレミオ!」
 大丈夫か、と身を乗り出して自分まで落ちないよう足許に気を配りながら、下を覗き込む。ようやく滑り終わったのか、痛そうにしながらもなんとか平気らしく彼が手を振ってくれたのを見、ホッと胸をなで下ろす。
 ここで彼にまで居なくなられてしまっては、それこそぼくは自分を許せなくなるだろう。
「ぼっちゃぁぁぁ~~~~ん!」
 情けない声ではあるものの、この距離を届かせるだけの大声が出せるのなら無事に違いない。吐き出した息分の空気を胸一杯に吸い込んで、また吐き出して改めて目の前を見つめた。
 テッド、君もいつかの昔、この景色を見たんだね。
 流れていく風に向かって囁きかけ、返答を待つように静かに目を閉じる。後頭部で締めたバンダナが風に棚引き、ゆらゆらと揺れて襟首を擽ってくる。
 君が見た、歩いた場所をぼくも歩いていこう。君が必要とした300年という時間を、ぼくもそうやって過ごそうと思う。君が過ごした時間を、ぼくも感じてみたいと思う。
 そしてもしぼくが、君の生きた時間を超えて。
 その先も歩いて行けるのだとしたら、その時は。
 君に教えてあげられるように、ぼくが今度は色々な世界を歩いてみようと思っている。君が知らない場所を訪ね歩き、君が見たこともないような景色を見つけて、君が驚くような体験をしてみようと思っている。
 閉じた目を開く。
 世界は金色から明るい白へと姿を変える。朝が来る、一瞬だけの奇跡の光景はこれで終わる。
 ゆっくり、踵を返した。崖の下では変わらずグレミオが、荷物の無事を確認しながらぼくの事を呼び続けている。
 今度こそはっきりと分かる笑みを顔に浮かべ、ぼくは歩き出した。
「今行く!」
 大声で返事をしてグレミオを黙らせ、注意しながら、足許の崩れやすい岩と砂の大地を踏みしめて坂を下っていく。
 途中で一度だけ、背後を振り返った。
 太陽はもうすっかり地平線から完全に顔を出し、光を大地に振りまいている。照らし出された黄金の穂波は風に揺れ、収穫の季節を心待ちにしていることだろう。
 もうあの黄金色の光は見えない。
「またな、テッド」
 なにもない空間に告げ、足早に下りの道を急ぐ事にした。身軽に大きな岩を飛び越えて着地を繰り返すぼくに、下で見ているしかないグレミオがその度に悲鳴を上げるのが聞こえる。
 自然と笑いがこみ上げてきて、ぼくは随分と久方ぶりに思い切り心の底から笑った。
 なにかが可笑しかったり、楽しかったからではない。ただ純粋に、笑いたかったのだろうと後から思った。
 そして笑いながらぼくは、もうひとつある事を思い出した。
 この場所で黄金の光を見た帰りの坂道で、テッド、君もやっぱりこんな風に大声で笑ったんだっけ、と。