空の光、それは君の色

 初夏の陽気を地上に晒している太陽を憎らしげに見上げ、オレは昼休みも早々に食べ終わってしまった弁当を手早く片付けに入った。
 この程度の量ではとてもこの空腹を訴え続ける胃袋を満たしきれず、未だ規則正しく箸を動かし続けている沢松に視線を戻してから椅子を引いた。
「どっか行くのか?」
 むぐむぐと口を動かしながら行儀悪く沢松が言う。弁当箱を乱暴に、中身も入っていないので斜めにしても問題ないと鞄に詰め込んだオレはおう、とひとつ縦に頷き鞄に突っ込んだ手で今度は財布を捜し出して引き抜いた。
 黒の、かなり使い込まれている所為で端の方が擦り切れて色落ちも目立つ革製の財布を手の上で遊ばせ、もう一度窓の外を見やった。
「足りねーから、食堂行ってくる」
「今からか?」
 箸を咥えたまま咀嚼し、嚥下する沢松を嫌そうに見返してもう一度頷く。ちらりと盗み見た奴の腕時計は、昼休みの残り時間を約十八分と計上していた。奴の時計は正確な時間よりも二分ほど早いから、残り時間はあと二十分といったところか。その五分前には予鈴が鳴り響く。
 急げばうどんの一杯くらい行けるだろう、そう考えてひとまず財布の中身を確認した。昨日の段階ではまだ夏目漱石が一枚残っていたはず……だが。
 それはあくまでも、昨日の昼までの中身だった事を確かめてから思い出した。
「…………」
 財布を胸元にしたまま沢松を見る。奴は箸を置き、やれやれと言った風情で肩を大仰に竦めた。仕方がないな、と呟きながら右手を自分のズボン後ろポケットへ回し、そこに入れられている自分の財布を取る。ぱちん、とがま口タイプのそれを開き、中から銀色の大振りな硬貨を一枚取りだした。
「ほれ」
 ちゃんと後で返せよ、と念を押すことを忘れず沢松は五百円硬貨をオレの差し出した手の平に置いた。それから空になった手でオレの眉間を指さし、
「言っとくが、“貸す”だけだかんな」
「わーってるって」
 んな連呼されなくても聞こえてるよ、と口では言いつつも実のところ、既に沢松からの借金は万単位に徐々に近付いていっている。返済を迫られるたびにオレは「出世払いだ」と逃げ回るわけだが、奴は一応その言葉で引き下がってくれる。
 甘えているなと思いつつ、その甘えから脱却できずに居るオレ。
「じゃ、行ってくる」
「ちゃんと返せよー」
 椅子を引いて立ち上がったオレに、再び箸を取った沢松が最後の釘刺しを告げる。もう苦笑いするしかなく、オレは後ろ手に手を振ってざわつく教室を出た。
 一年の教室は校舎の最上階にあるから、食堂はかなり遠い。既に食事を終えた連中が廊下で溜まっているのを躱しながら、食堂へ行くに一番近い階段を下りようと角を曲がった。
 そこで、オレは見つけた。
 窓の向こうには、普通教室のある校舎棟と渡り廊下で繋がっているだけの特別教室が並ぶ校舎の非常階段が見えるのだが。その特別教室棟は今オレがいる校舎よりも階がひとつ高いのだけれど。
 その特別棟の外側にある非常階段、一番上。
 暑いばかりの夏を思わせる陽気が満ちる、澄み渡った青空の下に、その空に負けないくらいの青空を身に纏っている存在を。
 オレは、見つけてしまった。
 おりようとしていた足が中途半端に停止して、崩れそうになったバランスに慌てて手摺りにしがみついた。危うく階段落下の羽目に陥るところで、なんとか回避された事にホッとする間もなくオレは再度、空の下にある空色を見上げた。
 少しここからは遠くて小さくしか見えないから、もしかしたら見間違いかと自分の視力を若干疑いもしたが。
 空色は相変わらずそこにあった。間違えるはずがない、あんな目立つ髪の色をした奴はこの学校に何人も居ない。
「司馬?」
 口の中でその名前を呟く。疑問符で僅かに上がった語尾に引かれるままに、オレは一段落ちてしまっていた足を戻した。方向を転換し、滅多に人が通らない渡り廊下へと向かう。その間もしつこく窓の外を見て、あいつが居なくなっていないかどうかを確かめながら。
 閉められている扉を開け、教室棟とは空気の色も温度も一変してしまった特別教室の前を歩く。他に誰も居ないのか、廊下にはオレの足音しか響かない。
 化学室の札が出ている教室の前で一度立ち止まって窓から中を覗き込むが、一年の授業ではまだ化学が選択できないので勿論、中に入った事はない。ただなんとなく不気味な印象を受けてしまい、慌てて視線を逸らして非常階段に続いているはずの扉を探した。
 探さなくても、廊下の一番端にある扉が目的の階段に繋がっているのだけれど、その時はそんな事にも気が回らなかった。
 ただ一秒でも早くこの寂しくて冷たい感じのする場所から逃げ出したくて、オレは足早に廊下を進み、扉を開けた。
 鍵はかけられていなかったけれど、滅多に使用されていない為かなかなか開いてくれない。強引にノブを回して力任せに押すと、かなり軋んだ音を立てて扉は外側に開かれた。
「うわっ!」
 それが唐突だったものだから、オレは情けなくも悲鳴を上げてドアノブにしがみついたまま階段に足を踏み出した。突風が吹き荒れ、大して手入れも出来ていない髪が掻き乱される。
 右足をスキップする要領で前に出し、それからバランスを取ってドアからも手を放し自分の足だけで立つ。上を見上げるとまだ一階分の高さがあるためにこの場所には天井が出来ていて、司馬の姿はそこになかった。
 あいつは確か、五階への入り口前に立っていたはず。今の声、聞こえたかな。でも聞こえていたら降りてくるくらいの事をしてそうだし、やっぱり聞こえなかったんだろうな。
 だってあいつ、いっつもヘッドホンして音楽聴いてるし。
 自分で開けた扉を今度は慎重に閉め、オレは階段を登り始めた。すっかり空腹の事は頭から抜け落ちてしまっていて、葛折りの非常階段の踊り場を曲がった先に見えた司馬の青い髪に少しだけ、胸が早鳴る。
「しーば」
 予想通り、それは奴だった。
 近くで見ると尚更空の色をしている髪の、オレよりも少し(強調)背の高い男がポケットに手を突っ込み、高い空を見上げていた。両耳にはいつものようにヘッドホン、そこから伸びるコードは奴の胸ポケットへと消えていた。
 瞳を隠すサングラスも装備したままで、奴の表情を無色にしてしまっている。今あいつがどんな顔をしているのか、よく分からない。
 そしてオレの呼びかけに、返事はなかった。しかもこちらを振り返りもしない。
 気付かれてない?
 その可能性は否定できないが、人が折角呼んでやっているのに気付かないでいるあいつも大概失礼な奴である。オレは残っていた半階分の階段を二段飛ばしに登り、司馬の居る踊り場に並んだ。
 そこに来てようやく、オレの気配を気取ったらしい司馬がゆっくりとした動作で振り返った。
 オレの顔を見る、だけれどサングラスに隠されてやはり表情は掴みきれない。
「司馬」
 よぉ、と片手を挙げて一応挨拶。すると司馬は少しだけ困惑した様子で、けれど反応しないわけにもいかないといった感じで曖昧な表情のまま小さく頷いた。
 もっともどの表情の変化も本当に微細で、気を抜けば見落として仕舞いかねないものばかり。
 こいつ、本当に表情の変化に欠けてるよなー。
 挙げた手を下ろし、行き場に困って結局ポケットに突っ込むしかなく、オレはじっと司馬の顔を見続ける。
 なに? と言いたいらしい司馬の表情が見て取れた。
「うんにゃ、用は特にねーけど」
 窓からお前が見えたから、何してんのかなーと思って来てみただけ。
 そう答え、オレは自分たちの教室がある建物を指さした。窓の向こうで小さく、行き交う生徒の姿がいくらか見えた。校舎の向こうはグラウンドだが、この場所からでは残念ながら見ることは出来ない。
「で、何してたんだ?」
 質問には答えた、だから今度はお前が答える番だ。
 カラカラと笑いながらオレは司馬を見上げる。困惑した顔のまま、奴はふぅ、と息を吐いた。
 溜息のようで、そうでないようで。
 暫くの間があって、司馬は空を見上げた。つられてオレも同じものを見上げる。
 どこまでも青く、暖かく、広くてその上高い。
 司馬の色。
 なんとなくだけど、分かった。司馬がここへ来た理由。
 屋上へは立ち入りが禁止されていて、普段から鍵が掛けられている(一箇所窓が割れてて立ち入れる場所はあるんだけど、そこはいつも誰かがいる)から。
 だからそこを除けば、この場所が一番、学校で空に近い。
 一面の、青。
「なー、司馬」
 オレは空から脇に立つ男に視線を移した。空腹のことはもうすっかり、頭の中から抜け落ちてしまっていた。ただ今隣に立っている司馬に、少しだけ興味がわいた。
 いや、違うか。
 興味は前からあったんだ。その興味を惹かれた理由が、少しだけ分かった気がしたのだ。
 司馬がオレを見る。その顔に両手を伸ばし、右手で司馬の左頬、左手で司馬の右頬を、それぞれに抓ってみた。
「…………」
 あ、やべ。失敗したか?
 無反応、だけれど困っている事は空気で伝わってきてオレは司馬の頬を摘んだまま苦笑と冷や汗を浮かべた。
「えーっと……なんだ。ちゃんと柔らかいじゃん、お前」
 当たり前なのだけれど、と心の中で舌を出す。固かったらそれ、人間じゃないし。
 でも表情の少ない司馬が本当に顔まで固くなってしまっているのではないだろうか、と以前に疑ってみた事がある事も実は本当だったりする。オレはあいつが、思いっきり笑ったり怒ったりしている姿を見たことがない。
 ふにふにと数回司馬を痛くない程度に抓ってから手を放す。
 青空から降りてくる風は温く、緩い。
「……いや、だから」
 司馬はなにも答えない。こいつが口を開いたところさえ滅多にないのに、なにか言ってくれる事を期待した。最早怒らせたかったのか、笑わせたかったのかも分からなくなってオレはへへ、と乾いた笑みを浮かべた。
 さらり、と肌に触れる感触が訪れたのはその直後で。
 なんだろう、と思った瞬間にそれは司馬がオレに触れていると気付いた。
「司馬……?」
 司馬の手は片手だけで、オレみたいに両側から摘むような事はなかった。だけれど、やっぱり軽くだけど捻られた。
 頬の皮がふにっ、と伸びる。自慢じゃないが、オレの顔は結構伸びる。司馬は意外だったようで、少ししつこく触ってきた。
 珍しい。
 でも、悪くない。
「くすぐってーよ」
 抓られて少し赤くなってしまった頬を、今度は宥めるようにしてさすってくる司馬の手にけらけらと笑い、オレは首を振った。反動で頬にあった奴の手は下方へずれ落ちて頸部に触れた。
 一瞬びくっ、と全身が粟立ったけれど司馬は気付かなかったのか、すぐにその場所から去っていった。
 そして、喉仏の膨らみに触れた後、上へ戻ってオレの顎を掴んだ。
 掴んだ、という表現は正しくないようでもっとちゃんと言うなら、添えられた、とするのが正確のようだったけれど。
 人差し指から先の指が顎に置かれたままで、司馬の親指の腹は別の場所をなぞっていた。
 何故かオレは、動けなかった。
「司馬……」
 声が震えている。言葉を発する時に危うく触れて来る司馬の親指を唇で咬んでしまいそうで、嫌に神経が尖り緊張を必要とした。
 オレの声となった息が触れたのだろう、司馬が薄く笑った……ような気がした。
「あ、の……司馬……?」
 自分が今どんな顔をしているのか、想像出来ないししたくなかった。ただ必要以上に困ってしまっているオレが、縋るように司馬を見つめる。
 刹那。
 ナイスタイミング、と表現する以外に他無いくらいに午後の授業開始五分前を告げる予鈴が、学校内に甲高く鳴り響いた。特にこの場所は、外に据えられたスピーカーのひとつに近くて音も普段より大きく響き、オレはびくっ、と鳴った瞬間身体を強張らせて縮こまった。
 この時、つい司馬の親指を咬んでしまった事はこの際、事故として処理して欲しい。
「あっ、あー! 予鈴鳴ったな、このままじゃ遅刻しちまうよな!」
 オレが咬んでしまった事で司馬は手を放し、オレも慌てて大袈裟に両手を振り回し叫ぶ。この場に他に誰も居なくて良かったと、心の底から思った。
 どうしよう、心臓がばくばく言ってる。けどこれ、た、多分……間近でチャイムが鳴った所為だよな。そうだよな? そういう事にしておこう、そうしよう!
「行くぞ、司馬。オレ、次、数学なんだよやべーな全然分かんねーんだよお前分かるか?」
 振り回していた両手を戻し、オレは階段を下りる為にくるりと踵で方向を転換させた。けれど数段降りてから、後ろに続く気配が無いことを怪訝に思い、振り返る。
 振り返った瞬間、振り返らねば良かったと後悔したが最早遅く。
 オレはばっちり、オレが咬んでしまった親指を舐めている司馬を目撃してしまった。
 いや、それはあくまでも痛みを和らげる為の事であっただろうし、でもそれって血が出たときの消毒方法じゃなかったっけ? と思考がグルグル回って終いには支離滅裂な事を想像し始めて。
 オレは、怒鳴っていた。
「先行くからな!」
 火山が噴火したような勢いでオレは司馬を指さして叫び、転げ落ちるように階段を走り抜けた。四階の扉を開けて校舎内に飛び込み、さっきまでは誰も居なかったのに次授業なのか、他学年の生徒が集まり始めていた化学室の前を爆走。
「あれ、今の猿野君……?」
 だからその化学室に牛尾キャプテンが居た事にもまるで気付かなかったし。
「やあ、司馬君。今猿野君がもの凄い顔をして走っていったけど、なにかあったのかい?」
 その後をゆっくり歩いていた司馬がそんな質問をキャプテンから受けていた事も。
 返事の代わりに、司馬が楽しげに微笑んで会釈し、去っていった事も知らなかった。
「っれー、天国。お前どこ行ってたんだよ」
 食堂に居なかっただろ、お前。
 教室に飛び込んだオレを見て沢松が声をかけてきたが、オレは返事も出来ず耳の先まで真っ赤になった顔を机に押しつける。
「どした?」
 心配そうに沢松が声をかけてくるが、勿論本当の事を言う事なんでオレには出来ない。
「ちくしょー……」
 まだ熱のある頬と唇を片手で押さえ、オレは小さく呻く。
 間もなく本鈴が学校に鳴り響き、けれどオレが復活できるのにはもうしばらく、時間が必要そうだった。

02年4月2日脱稿