wave

 波のように押し寄せる、それは魂の叫び。
 風のようであり、だがそれは布地や髪を揺さぶることはない。けれど確かにその波は存在し、自分たちに向けて押し寄せてきている。その波に呑まれてしまわぬよう、己は懸命にかいなに抱くベースを握りしめて音をかき鳴らす。その音が更なる波をもたらしているという、簡単な事実さえ無視して。
 ただ、無我夢中で。
 見えない波に抗いながら、それでもその心地よさに魂が震えている。
 ああ、自分は生きているのだと確かに感じさせてくれる何かが、この場所には存在している。一度覚えてしまった快楽を手放すことは難しく、だからきっと自分はまたこの場所に帰ってくるに違いない。
きっと、必ず。
 彼らと、共に――――

 
 酔った。
 そんな気分。
 けれど少し違う。
 少し、どころの違いではないかも知れない。
 だって、充実しているから。
 こんなにも身体は疲れているのに、こんなにも心は満たされている。今にも溢れ出しそうな程に、心は疲れるどころかまだまだやれるぞ、とでも言いたげだった。
 キモチイイ。
 一言で表現するとしたら、そんな言葉くらいしか頭に思いつかない。
 押し寄せてくる歓声、それに応えようとして必死に、何もかも頭から吹き飛ぶくらいにマイクへありったけの思いを打ち込んで。
 跳ね返ってくる何か、を、確かに感じた。
 それは恐らく自分だけが感じたものではないはずだ。あの場所で時間を共有した彼らもまた、きっと。
 そう思えるし、思いたい。
 扉を開けて、誰も居ないはずの薄暗い部屋に一歩足を踏み入れたところで動きが止まる。
「あれぇ……?」
 照明が灯っていないからてっきり無人だとばかり思っていた。けれど、違う。暗闇に染まる室内には確かに、誰かの存在が感じ取れる。
 それは扉の開く音で微かに瞼を持ち上げ、己が発した音を聴いて再び瞼を閉ざしてしまった。
 誰何の声などあげない。こんな部屋に、闇に包まれてひとりきりで居る存在なんてひとりきりしか知らない。
「なに、してる?」
 その代わり、そんなことを口に出してみる。言葉が返ってくる様子は無い。それも、いつも通りで変わらない。
 けれど何処か、違う気がする。
「そっち。行ってもいい?」
 矢張り返事はない。拒否も許可の言葉もなかったけれど、彼が何も言わない事は則ち許可を意味することは、長い時間がかかったけれど理解したから。
 今度は何も言わずに、歩を進める。
 たった五歩にも行かない距離が、とてつもなく遠い距離に思えた。
「明かり、つけないの?」
 あと一歩、進めば彼に触れることの出来る距離。けれどその一歩を踏み出す手前で動きを止める。
 多分、自分はまだこの一歩分の距離を詰めるだけの関係を彼との間に築けていない。自分から歩み寄る勇気を失って、ようやく手に入れたこの一歩分の距離を壊してしまうのが恐くなったのは何時からだっただろう。
 それすら、忘れた。
 昨日のことのようで、遠い昔のことのようにも思える。
 透き通るような声は、響かない。どうも彼は自分の前では普段以上に無口になってしまうらしくて、それが少し、気に入らない。
 もっと聴かせてくれても良いのに、と思うもののそんな言葉を口にすることは無論、叶わない。
 望んではならない、望んでも手に入らないのなら最初から、求めたりしたくない。
 それでも無意識の手を伸ばして虚空を掴むこの衝動を抑えきれない時が偶にあって、だから、困る。
 彼にそんな姿、見せられないし見せたくないから。
 だからもうちょっと、お願いだから、声を、聴かせて。
「目に悪いでしょ。明かり、点けるよ?」
「必要ない」
 最初から瞼など閉ざしている。闇になれた瞳に映る彼は確かに、ずっと脚を組んでその上に頬杖、瞳は伏されたまま。闇の中でも映えるあの紅玉の鮮やかさは全く感じられないし見受けられなかった。
 けれど、この闇は自分の存在を不確かにする。
 何もかもが溶けていってひとつになって。周りが、自分が、なにもかもが、見えなくなってしまうから。
「でも、さ」
「見えなくとも……」
 ふっ、と。
 風が走り抜けていった気がした。
「感じることは、出来るだろう?」
 唄うように、囁くように、水に溶ける光のように。
 問いかけと共に持ち上げられた視線、射るようでそれでいて、優しい日溜まりのような紅玉の双眸に見つめられて鼓動が早まった。
 表面上の変化はなにひとつ現れていないはずなのに、彼にはそれが解ったのか薄い笑みを一瞬だけ浮かべる。
 瞳が、優しい。
 見えなくても感じた、魂レベルでの波。
 ステージ上で体感したあの感覚が戻ってくる。一度引いていった波が今度は更に大きな波になって押し寄せてくるような、あの感覚。
 酔った、かもしれない。
 今度こそ。
「だったら、さ」
 見えなくて、だからこそ何よりも不確かなもの。本当は、一番恐いのは自分が薄れてしまうこと。
 誰の目にも残らない、誰の心に触れることも出来ない。それは同時に、自分が誰にも触れず誰からも触れてもらえない事だったから。
 恐かったのは、感じてもらえないこと。
 だから、だろう。ステージに立ってあの波を感じると、自分は確かに此処にいて、皆に自分の存在を感じてもらえているのだと実感できて。
「ぼくは、見えてる?」
「此処に居る」
 瞳を閉ざしたまま、変わらない口調で彼は呟く。硝子玉を転がしたような声が、薄闇に響き渡って消えていく。
「違うか?」
「……そうだね」
 見える、ではなく。
 居る、と。
 一歩、前に出る。
 彼が腰掛けている椅子の、肘置きに両手を添えて。
「ありがとう」
 何処か泣きそうな声で呟いた声に、彼の微笑んだ唇が一瞬、触れたような気がした。