冷たくて、熱いもの

 十二支高校野球部の練習は、正直言ってハードだ。
 どう考えても、戯れに近い高校生のお遊びとは違う。所属する部員いずれもが真剣であり、僅か九つしかないレギュラーポジションの座を争いあっている。黄土色の乾いた土の上を疾る白球を追いかける目は、一瞬の変化も見逃さぬようにしっかりと見開かれ、素人同然の天国にはそれが在る意味脅威であった。
 まったくどうしてこうしてもう、みんなしてそんな恐い顔しながらボールを追いかけるものかねぇ。
 そう思いつつも、自分もまたその輪に加わってグローブを構え、牛尾キャプテンのノックを受けている最中だったりするわけだけれど。
 守備は正直、苦手。不得手、大嫌い。
 凪さんの為に野球部に入部して、似合わない泥臭さと汗くささに毎日まみれながら白球を追いかける日々が続く。少しは勉強して、まるで知らずにいた野球のルールも沢松にバカにされない程度には覚えた。
 でも未だに、“いんふぃーるどふらい”ってのが普通のフライとどう違うのか分からない。誰かに訊こうにも、冥にでも知られたら素人とバカにされるから、誰にも聞けずにいる。今のところ困った事はないから良いかも知れないけれど、ファーストなんだからそれくらい覚えておけよ、と沢松に言われた事は忘れていない。
 言って置いて教えてくれない奴も、親友甲斐がないってもんだ。
 ぶつくさ文句を呟いているうちに、軽快な打撃音が響いて猛スピードの硬球が突進してきた。避けそうになる腰を留めて、ボールを真正面に見据えながら野球の基礎本に書かれていた内容を頭の中で高速回転させる。
 ――ええと、まず腰を低くして体勢を落とし、ボールの真正面に入る、だろ? グローブは指先の方を下にして手首を上にして、右手は添えるように……って。
「どぉわ!!」
 あまりにも頭の中で考え込む時間が長すぎたらしい。
 御門が打ったボールは鮮やかに、見事なまでに、思わず観客席に居た誰もが立ち上がって一斉に拍手喝采を送るくらいに、天国の脳天を直撃していた。
 ちょうど目と目の間にめり込んだボールが、赤い形跡を残して天国の顔から落ちていく。それとほぼ時を同じくして天国の身体も後ろ向きに、地球の重力に引っ張られる格好でズドン、と落ちた。
 コロコロとその脇を白球が転がっていった。
「あ~あぁ」
 一番近くにいた比乃が頭の後ろで手を組みながら駆け寄って、真上からノックダウンを喰らった天国の顔を覗き込む。顔の位置はそのままに膝を折って傍らに座り込むと、恐る恐る手を伸ばしてダウン中の天国の頬をつついてみた。
 反応、ナッシング。
 バッドを置いた御門も慌てて走ってくる。その他、グラウンドに散らばっていた面々も何事かと動きを止めた。だけれどそのうちの大半は、騒ぎの中心に居るのがあの猿野天国であると知ると、またかよ、という顔で練習を再開させていった。
 まったく気付く様子がない天国の頭の上では、可愛らしい天使が三人笛を吹き鳴らしながらくるくると踊っていた。
 御門が、比乃に変な事はするなと視線だけで制して困ったように顔を顰める。
「おーい、お猿の兄ちゃん。無事?」
 呼んでも返事がない事を分かっているくせに、わざとらしく問いかけ首を捻り、比乃は試しに持っていたグローブでばしっ、と天国の頬を叩いてみた。明らかに不快な表情を表に出し、御門が眉根を寄せる。
 悪戯っぽく比乃は笑った。肩を揺らし、一緒になって被っている帽子の耳垂れ部分がひょこひょこと跳ね上がる。
「兎丸君」
 更にもう一発、気付け代わりに天君にちょっかいを出そうとグローブを構えた比乃に制止の声を上げようとした御門だったが、丁度天国を挟んで彼とは反対側に立っている彼には手を伸ばしても、比乃の動きを止める事は出来なかった。
 だけれど、比乃の右手が振り下ろされる事はなかった。
 地面に横たわり、顔面にボールを直撃して後頭部は倒れたときにグラウンドで強打して、挙げ句比乃にグラブで殴られた天国は、それでもまだ目を覚ます気配がない。ただ小さく呻き声をあげ、苦しそうな表情で横を向いただけ。
「…………」
「司馬君?」
「……ちぇっ」
 怪訝そうな声を出す御門と、不満そうに舌打ちする比乃の声が重なり合った。微かに、そこに洋楽が被さる。
 無言のまま、葵は掴んでいた比乃の腕を放した。ようやく強く握られていた力から解放され、変な体勢で居らねばならない必要もなくなった比乃が、不服そうに頬を膨らませる。ユニフォームの袖を捲って今まで握られていた箇所を確かめると、少しだけ鬱血して赤くなって指の後が残っていた。
「はいはい、司馬君ってば恐いんだから」
 袖を戻し、グローブを持ち直した比乃が肩を竦めて苦笑する。それから自分よりも遙かに高い位置にある、表情に変化の見られない葵の顔を見上げ、にっ、と口端を持ち上げて笑った。
 悪巧みをしている時の、悪戯小僧の笑みだ。
「キャプテン。ぼくじゃお猿の兄ちゃん運べないから、司馬君が運んでくれるって~」
 確かに体格上の違いから、比乃が天国を背負うのは難しい。しかし引きずっても構わないのであれば比乃でも、グラウンドの外へ運ぶくらいなら出来るだろう。それに、この場には言われた当人の御門も居るのだ。
 但し御門はキャプテンであり、そうそう練習中の現場から立ち去る事は難しいだろうが。
 御門はやはり困惑顔で比乃と天国の顔を交互に見て、それからいきなり話を振られて困っている葵を見た。
 サングラスで表情は限りなく遮断されてしまっているが、今の葵が困っている事くらい御門でも分かる。
 ただ比乃の言うとおり、天国をこのまま放置しておくことは出来ない。いつボールが飛んでくるかも分からない場所に寝かせて置くことも出来ないし、御門がグラウンドを留守にすることは避けたい。その上で天国は、一応怪我人だ。比乃に引きずらせていくのも、気の毒過ぎる。
 御門は視線を泳がせた。グラウンド内を静かに見渡すが、他の面々は既に練習に戻っており、薄情すぎるくらいに彼らに無関心だった。
 ただひとり、冥が時々ちらちらとこちらを伺うようにしていたが、御門と目が合いそうになると慌ててボールをキャッチャーミット目掛けて放り投げていた。
 もっともそれは集中不足の所為か、見事に空中に弧を描いて大暴投となっていたが。
 一通り周囲を見回してから視線を戻し、御門は肩を落としながら溜息をつく。その一連の行動でさえ、どこか芝居がかっていて大袈裟だ。
「司馬君」
 眉間に指を押さえて表情を作ってから、にっこりと御門が微笑む。
 いつの間にか比乃もその場から消え去っていた。ちゃっかりしているのかなんなのか、天国を心配している子津に大丈夫だから、と声をかけてキャッチボールを再開させている。
 葵がサングラスの奧にある目を俯かせた。色の被さった視線の先に、気を失っている天国が見える。
「頼まれてくれるかな?」
 拒否権などないよ、と表情が語る御門のひとことに、葵は疲れた素振りでひとつ頷いた。
 

 
 背負うか抱き上げるか、三秒ほど悩んで結局抱えやすいからと、葵は天国を両腕で抱き上げる方式を選んだ。
 途端、背後で凄まじい殺気を感じて振り返ったが、そこには十二支高校野球部の面々が黙々とキャッチボールと守備練習を続けているだけで、他に不審な点は見受けられなかった。
 葵は首を捻り、何もなかった事にして天国を抱えなおした。
 殺気は相変わらず、彼が視線を外すと途端に巨大化する。けれど常からそういった他者の感情を遮っている葵には、そういうものはあまり効果がなく、涼しい顔をしてグラウンドを歩いていく。
 嫌がらせなのか、誰かが放ったらしいボールが葵目掛けて飛んできた。
 こちらは天国を抱えているというのに、そういう基本的な事も忘れて行動に及ぶ奴の神経が信じられない、と首を捻ることで軽々とボールを躱した葵はふと、ボールが飛んできた方向を見やる。咄嗟に視線を逸らしたのは、数人。
 けれど思い当たるのは、ひとり。
 別に良いんだけど、と葵は高身の背中を眺めながら思った。
「う……」
 天国が腕の中で低く呻く。幸か不幸か、女子マネージャー達は筋トレに使う器具を借り受けに出かけている最中だった。
 視線を巡らせて監督の顔色を窺うと、向こう側も面倒臭そうにして顎をしゃくり、グラウンドの外を指し示した。つまりは、ここに置いておかずどこか邪魔にならないところに連れて行け、とそういう事。
 とはいえ、行く場所と言えば保健室か部室くらいだろう。どちらに行こうか悩んでいるうちに、腕の中にいる天国がもぞもぞと蠢きだした。
「…………」
 近い方が良いか、と結論を出して葵は歩き出した。天国がむず痒そうにぶつけた場所に手を伸ばすのを、肘を使って防ぎながら器用に支えて進む。
 部室棟の前までは楽に来られたけれども、困ったのは扉を開ける方法で。
 鍵は開いてあるから問題はないものの、両腕が天国で塞がっていてノブを回せない事に今頃気付く。やはり比乃についてきてもらうべきだったどうか、と思い至るが今更だ。
「ぅ~……」
 低い呻き声。ハッとして顔を下向けると、まだかろうじて覚醒には至っていない天国が掴むものを求め彷徨わせた手を、葵のユニフォームに添えて布を握りしめている最中だった。
「…………」
 ここで目を覚ましてくれなくて良かったと安堵する気持ちが半分、気付いてくれなくて残念だと感じている気持ちが、半分。
 複雑な表情をサングラスの裏に隠して、葵は腕に力を込めた。
 天国の左脇から差し込んでいた左腕を基軸にし、手を広げてその背中を支える。少しだけ天国の身体をずらして彼の顔が自分の胸の方を向くように直して、背に回した手を腰まで移動させた。
 膝裏に差し伸べていた右手を引き抜くと同時に、彼の足が急激に下方へ落下せぬように右肘と右足で支えてやりながら、かろうじて右の手だけを自由にする。
 けれどあまり長い時間そうやっているのは辛いので、一発勝負でドアノブに開いた右手を向け、ノブを勢い良く回す。そして留め具が外れる瞬間を見計らって左肩でドアを押し開けた。
 倒れ込みそうになるのを寸前で踏み止まり、後方でぶらんぶらんと揺れているドアから差し込む光に照らされて明るい部室内をひとまず見回す。乱雑にものが積み重ねられ、正直整理整頓が行き届いているとは言い難いものの中央に近い場所にある、スチール製の背もたれがない長椅子の上だけはかろうじて綺麗だった。
 数歩で辿り着ける場所に五歩を必要とし、葵は静かにそして丁寧に、天国を長椅子の上に横たわらせた。それから、開け放しにしていた部室のドアを閉めに行く。
 音を立てぬようゆっくりと締めると、一気に視界が薄暗くなった。そのあまりの変化に驚き、葵はドアの直ぐ横にあるスイッチを入れようかと悩んだ。
 けれどまた突然に明るくなった所為で天国が変に気付くのは良くないだろうか、と考えて止める。その代わり、空気が籠もってしまう部室内を喚起しようと、ドアとは逆位置にある窓へ向かった。
 ただ、その足は目的地へ辿り着く事無く止まった。
「……司馬……?」
 まだ赤みが消えていない顔を押さえ、痛むらしい場所に指が触れた事に苦悶の表情を作った天国が微かな声で呟く。瞼はいつの間にか開いていた。だが通常の元気良さが分かるサイズの半分の位置で止まっている。
「…………」
 中途半端に出している最中だった足を戻し、葵は口澱んで天国を見下ろす。
 起きあがろうと椅子の上に投げ出されている自分の足を引き戻し、床に下ろす天国を見て口を歪めた。サングラスの下では、恐らく同じように目元も細められて困惑しているのだろう。
 但し、それは天国にも葵自身でさえも見えなかったが。
 身を起こし、椅子に座り直した天国が緩く首を振る。大丈夫か、と側に近付いてきた葵を見上げ、彼は状況を把握しようと眉間に皺を刻んで考え込み始めた。
「ここ、部室だよな」
「…………」
 無言のまま葵が問いかけに頷いて返す。
「オレ、グラウンドでぶっ倒れたんだよな」
「…………」
 上に同じく。
「で、ここは部室なんだよな?」
 少しだけ不思議そうに葵は首を捻ってみた。真っ直ぐに見上げてくる天国の顔に、分かりづらい表情を翳らせる。
「っあ~~! って事は、アレか。オレはお前におんぶされて此処まで運んで貰っちまったって、そういう事か!?」
 正確にはおんぶではなく抱っこだ、と訂正するのは止めておいた。葵の目の前で天国がうが~! と照れているのか笑っているのか、怒っているのかもの凄く曖昧な、混ざり合った表情で憤慨し始めたから。
 天国はそのままひとりで自分の世界へと入り浸り、座ったまま地団駄を踏んだり頭を抱えてぶつけたばかりの場所を掻きむしりながらなにやら唸っている。どうも、情けなく気を失った事以上に人の手を借りて部室に退場してきた自分が恥ずかしく、格好悪くて嫌らしい。
 まぁ、普通の男にとっては屈辱でしかないだろうが。
 しかしそれにしても、騒々しい。
 葵の耳には変わらずMDからの楽曲が流れてきているが、ちょうど静かなバラード調のものに切り替わった直後に重なってしまい、天国の声がダイレクトに脳裏に響いてくる。
 はぁ、と溜息をついた。
 首を回す、踵を返して葵は天国から一旦離れた。それにも気付かずに天国はひとり、狼狽しながら歯ぎしりしている。
 けれども、ひやりとした空気が肌を擦った瞬間、
「ひゃぁ!」
 身を竦ませてか細い悲鳴を上げた。胸の前で腕を交差させて身体を抱きしめた彼の首脇から差し出されたものは、500mlサイズのペットボトル。中身は透明、つまり水。しかもこのむさ苦しい部室の中にあって、冷蔵庫から取り出されたばかりかのように冷たい。
 天国は怪訝な顔をしつつ、怖々と背後を振り返った。そして見上げた先に自分へと影を落とす高身の存在を認め、ほっと安堵の息を零した。
「くれんのか?」
 ようやく静かになり、落ちついた呼吸を取り戻した天国は未だボトルの首を持ったまま尻の方を差し出している葵に問いかけた。相変わらず無言のままだったが、葵の口元が僅かに緩んでおり、頷き返してもらえなかったがそれは肯定の意味だろう、と勝手に判断して天国は自分に向けられているボトルを掴んだ。
 力を込めると同時に、葵の指が外される。見事なタイミングの計り方に心の中でだけで感心して、まだ封が解かれていないボトルの蓋を外した。
 ふわっとした水の香りが鼻先を掠めていく。誘われるままに口をつけ、ボトルを傾けて喉を鳴らした。
 ごくり、とひとくち分。冷たいものが思いの外乾いていたらしい喉を潤し、腹の中へと沈んでいくのが分かった。昼食の弁当もすっかり消化されてしまったらしい胃の中に、冷たい水が染み渡っていく。
 そのまま、遠慮もなく喉を上下させ続けているうちに、気持ち良すぎて閉じていた目を開くと直ぐ前に葵の顔があって、天国は驚いてしまった。
「司馬……?」
 驚きのまま、ボトルから口を外した天国の瞳にサングラスが映る。色を被せたその向こう側は見えない。
 けれど、光が反射して、一瞬だけ、見えた。
 笑っていた、ような気が……する。
 触れる、と思った瞬間にきゅっ、と固く天国は目を閉じた。一緒に肩を窄めて膝頭に力を込めて身体まで小さく縮める。
 寒い冬の朝、蒲団の中で縮こまっている子供のように。
 ツ……、と触れたのは、けれど一瞬。しかも意外な場所で、直ぐに熱は離れていって速攻でそれは乾き、跡形もなく消え去った。
 顎のラインと下唇の間、何もない場所。舐められただけだと、気付いた時には顔は紅潮してどうしようもなく心臓がばくばくと高鳴っていた。
 いや。きっと当初の想像通りの場所に、予想していたもので触れられていたらこれの比ではないくらいに凄いことになっていただろうけれども。これはこれで、健康に悪い。
「なっ、しっ、ばっ、ばっ、ばっ……!」
 動揺してしまって舌が回らず、頭の先から湯気を立てたまま天国が両手をわたわたさせる。それを眺めながら、椅子の前に立つ葵が口元を拭う仕草をした。
 曰く、まだ濡れている、と。
「っせぇ!」
 乱暴に怒鳴りつけ、天国は慌てて手の甲で乱暴に口元を拭う。そこまでがめつく水を飲んでいただろうか、と記憶を掘り返しながら冷静さを取り戻そうと試行錯誤している脇で。
 葵が椅子に置かれたペットボトルを取ろうと手を伸ばしてきた。
 中身は残り半分を少し割ったくらい。天国が身体を揺らす衝撃が伝わって表面を波立たせているそれを、彼は葵の手が触れる寸前で奪い去った。
「やらん」
 胸に抱き込んで主張する天国に対し、葵は心底困惑しているらしく口元が僅かに力む。
 そう言われても、それは元々葵の所持物であり天国には分け与えるつもりで差し出したものだ。
「だってお前、オレに『くれた』だろ?」
 にっ、と悪戯顔で天国は笑って葵を見上げた。
 思い起こせば確かに、そう言った――と言うよりかは、返事の代わりに頷いた。意志疎通にずれがあったことを実感し、葵は頬を指先で掻く。
 勝ったと天国はニンマリしながらもうひとくち、とペットボトルを傾けた。
「ところで、このあとどうする。戻るか?」
 すっかりくつろぎ体勢に入っている天国を見下ろし、問われて葵は肩を竦めた。流れていたMDはいつの間にかすべての楽曲を流し終え、再生ボタンを押される事を無音の中で待っていた。
 天国が笑う。やれやれ、といった風情で葵はその脇に腰を下ろした。
 MDの電源を切る。ヘッドホンを外すと、ダイレクトに傍らに座る天国の息づかいが聞こえてくる。その彼は今、ボトルの口回りに零してしまった水をちびちびと舌で舐め取っている最中だった。
 どこか子供じみた仕草を眺める。
「ん?」
 気付いた彼が目を細め、何を勘違いしたのか左手に持ったままのボトルを葵へと差し出した。
 呆気に取られる葵の前で、彼は「飲みたいんだろ?」と口に出した。
「…………」
 そのままボトルを手に押し込められる。天国は楽しそうに、葵が水を飲むシーンでも見たいのか膝の上で頬杖をついて彼を見上げている。
「…………」
 沈黙が続いた。ちらりと天国を窺い見ると、早く飲め、と目で訴えかけられて視線を戻す。
 意識しなければ別にどうだってないだろう、とは思うのだけれどやはりどうしようもなくて。葵はまず、ボトルを真っ直ぐに持ったまま口に近づけた。
 伸ばした舌先で、ボトルの口、捻りの水が溜まった部分を舐め取る。
「……っ!」
 瞬間、葵は後頭部を強打された。危うく口の中にボトルを突っ込むところで、振り返れば真っ赤になった天国が口を開閉させながら立っていた。
「恥ずかしい事すなー!!」
 耳の先まで赤く染まった天国の顔を見上げながら、葵はふっ、と口元を緩めた。
「うぅ……」
 光の反射具合で、見えないはずの葵の瞳が天国の位置からも見えた。その眼はやはり穏やかに微笑んでいて、それを見た瞬間にもう何も言い返せなくなってしまう。結局ストン、とその場に座り直してそれでも不満を身体いっぱいで表現するように、葵には背を向ける。
 だけれど、出ていくつもりはないらしい。脚を組んで、その上に肘を置いて。背中越しに葵の存在を感じながら、彼は静かに目を閉じた。
 そのうち、ボトルを逆さにして水を飲む音が耳に響いて。
 人知れずまた赤面して、オレの負けか、と呟いた。

02年3月15日脱稿